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ヨガナンダ



価値

インドから帰って十日ほど経ちましたが、
まだ頭の中が宙に浮いているような浮遊感を覚えます。

『インドに行くと価値観が変わる』という言葉をたまに聞きますが、
今回三度目のインドの旅で、
価値という概念そのものが、
実に不確かなものではないのかと思い至るようになりました。


モノ(物)やコト(事)、それ自体には価値が存在しません。
それをいかに利用するか、
それがいかに役立つのかというところに価値が生まれます。

猫に小判、豚に真珠というマイナスのことわざがありますが、
いかに世間的に評価の高いものであっても、
それを活かすことのできない人が持っていれば価値がありません。

またそれを存分に活かすことができたとしても、
それが結果的にマイナスの現象を生み出す原因となったとしたら、
それはマイナスの価値を持っていたと言えるのではないでしょうか。


ここに定価100円のボールペンがあったとします。
これを文房具屋さんでは100円、スーパーでは80円で売っているとしたら、
このボールペンの価値は一体いくらなんでしょうか。

発展途上国の学校に通えない子どもにこのボールペンをプレゼントしても、
まったく活用の仕方を知らない、また活用する場がないとしたら、
その子にとってこのボールペンは無価値かもしれません。

けれどもそのボールペンを与えてもらったことをキッカケに勉強するようになり、
字を覚え、学校に行って人生を豊かに過ごすことができたなら、
そのボールペンは無限大の価値があるかもしれません。

けれども学校に通うために町まで出かけ、
そこで運悪く交通事故に遭って大けがをしてしまうかもしれません。
だとしたら、このボールペンは災悪を引き寄せる原因を作った
マイナスの価値を持つものとなるのでしょうか。


人間万事塞翁が午、
どこで何が幸いし、何が災いの元になるのかは分かりません。
またその時々の “幸い” 、 “災い” というものが、
より長い目で見て、
その人の人生に於いてどのような影響を与えるのかも、
人生の最後の最後になってみなければ判断できません。

そしてもし仮に影響を判断できたとしても、
それにどのような価値を付けるかは、その人の考え方次第であり、
思いひとつで評価は如何様にも変ってしまいます。


かように価値とは不確かで実態がなく、
己の中の思いが最終的な評価基準となる相対的なものでしかないのです。

にも関わらず、それをあたかも価値は絶対的なものであると考え、
その “価値あるもの” を自分の外に求めようとするところから迷いが生じます。
そしてその迷いが高じるとカルト(狂信的)と呼ばれるものになり、
正常な判断力を失ってしまうのです。

私たち現代人もこのカルト的性質を、
多かれ少なかれ誰しもが必ず持っています。

私たちは高度にシステム化された社会に住み、
その中で高い教養を身に付け、物質的に恵まれた暮らしをすることが、
幸せであり豊かさであると教育され続けてきました。

その結果自然環境が破壊され、
人々の表情から笑みが消えてしまったとしても、
一度体に染み込んだ “価値観” は容易にぬぐい去ることができず、
自滅的結末を迎えるまで走り続けることになるのです。
  (もちろんそうならないよう方策を打つことが必要です)

モノ、お金、知識、情報、利便性、快適性、
それらが私たちが絶対的な価値があると信じ込んで追い求めている
カルトのご本尊様のようなものです。


外に絶対的な価値を求める人は、
己の内にある、その輝きを見つめることができません。

だから現代人は、外に向かって突き進むことは得意でも、
“自分を愛する” という、本来最も簡単なことが苦手なのです。


ではどのようにすれば価値の本質を正しくとらえ、
自分を深く愛することができるでしょうか。

それはその原理から考えても、
外に目を向けて得られるものではありません。
立派な先生の本、高額で世間の評価が高いセミナーに参加することではなく、
今この瞬間の自分、その自分の内側を見つめ、
それに暖かい眼差しを向けることによってのみ得られるものです。

己の中にすべてのものは存在する、
これが、これから始まろうとしている東洋の時代の真理です。

2010.6.16 Wednesday  
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