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主体的肉体

最近は時間の流れがとても濃密で、
まるで粘性を持った有機的なものに感じられるほどです。

身の回りで起こるすべてのことに、
以前よりも明確に意味を感じることができるようになりました。

嬉しいことが起こると心は明るくなりますが、
たとえ嫌なことがあったとしても、
それで感情が左右される前に、
それが起こった意味を考え、
何を意図して自らがそれを引き寄せたのかということに
より意識が向くようになりました。

起こることすべてが何かを学びたい、感じ取りたいという
意志の元に引き寄せたのであるならば、
一般的に、嬉しいことよりも、嫌なことの方に感じ取るべきことが多くあるものです。

嫌なことがあった時、
それにいかに対処するかが大きな学びの場です。
そしてそれをこれまでの生き方の中にはなかった
異なる方法で乗り越えることができたなら、
それはひとつの壁をクリアーできたこととなり、
再び同じような場面を引き寄せることはないでしょう。

ですから嫌なことがあった時ほど喜ぶべきことなのかもしれません。
そしてそれを本心から喜ぶことができたなら、
それは心の豊かさの表れなのだと思います。


己の中に因を求めるのは、
主体性を強く持つということと同じです。

他人との間で嫌なことがあった時、
まず自らに「何を望んでこの事態を引き起こしたのか」
ということを問いかけます。

その時に意識は自分の内側へ向くと同時に、
肉体感覚も体の奥深くへと入っていきます。

人間の五官の内の四官は頭部に集中していて、
頭部は自分の内と外とのインターフェイス(共用部分、界面)であり、
そこから正中心の背骨を通り、深い部分へと入っていき、
肚(はら)と呼ばれるおへその下の臍下丹田、肛門のあたりが、
動物的、肉体的、感覚的、思考的に最も深い部分であると考えられます。

男女とも生命を伝達する根源である生殖器官がその部分にあるのも、
構造的必然です。


人間は深い思考をする場合、
頭部で受け入れた情報を肚の奥深くまで入れ込んで、
太極図で陰陽を循環さすが如く思考を煮詰めていきます。
  <「キレる」を考える>



人から何かを言われ、
「この人はなんでこんなことを言うんだろう?」
とその人に注意を向けた時、
自分の意識は肉体の外にありますが、
「この人の言うことによって、自分は何を感じ取りたいと望んでいるのだろう?」
と感じたならば、意識は体の奥へと入り、
体の深い部分、肚(はら)のところにあるはずです。

そして意識が肚のところにあるならば、
肚や肛門は力が抜けきった状態ではなく、
意識の上でも肉体の上でも力の漲(みなぎ)った状態であるはずです。


自分自身を振り返ってみて、
最近のきわめて濃密な時間の流れの中で、
その真っ直中にいる自分を深く見つめることが多くなりました。

そしてそれと同時に、
以前にも増して肚に力がこもってきたことを感じます。

これは深く自分を見つめるようになったから肚に力がこもるようになったのか、
または肚に力がこもるようになったから自分を深く見つめることが多くなったのか、
そのどちらなのかはよく分かりませんが、
この二つが深く連動していることは間違いない事実であると確信できます。


気功や呼吸法で肚を鍛える訓練をするようになって二十年以上になりますが、
その間、肚の力が一時的に強くなったことが何度かあります。

そのひとつが、相撲の四股を踏む動作と似た気功法をしていた時です。
相撲の四股は明らかに肚、臍下丹田を鍛えるための気功です。
ただし四股で理想的に肚を鍛えるには、
股関節を180度に開く股割りができなければなりません。
それができなければ、四股を踏んでいる時に背骨を直立させることができず、
気を頭部から背骨を伝って肚までストレートに落とし込むことができないからです。
四股と股割りは二つでひとつです。

もうひとつは、口唇筋肉を鍛えるパタカラをはじめた時です。
  美顔法<2>
これははじめた当初、異常なまでに肚に力が漲り、
背筋に板バネを入れたかのように背骨が反り返りました。
今はその異常現象は落ち着きましたが、
毎日一回パタカラを噛み、体の中心線を保つ力を維持しています。

そして最近肚に気と力が充実してきているのは、
これまで何度かご紹介した「神物質」が原因があると考えられます。
  <岩戸開きの時> <近況_120402> <近況_120615>

神物質を口にするようになってすぐに肚に力がこもってきたのを感じ、
一時使用頻度を落したところその現象が収まり、
また最近頻繁に摂取するようになって再び肚に力が漲るようになりました。

開発者のスーハゆうじんさんは、
「一滴で一ヶ月は波動が持続する」と言われますが、
私はまだその域には達していません。

この神物質がどのような組成のものなのか詳しいことは分かりませんが、
様々な『調和の波動』を織り込んでいるとのことで、
そのことはなんとなく体で感じ取れます。

そして今このページを書いていて思い浮かんだのですが、
スーハゆうじんさんの編み出したスーハは、
元々日本語の言霊の中に秘められた『主体』の捉え方が原点なのですから、
それが肉体的な主体を司る肚に大きな影響を与えるのは
必然であろうと考えられます。
  (この詳しい解説はここでは書けません。一種の秘伝なのです)


現代人は姿勢が悪く、肚にまったく力がありません。
そのことは以前から感じていたのですが、
最近はその傾向にますます拍車がかかってきています。

特に男性がダメですね、
ピシッと惚れ惚れするような姿勢の男性を目にすることはほとんどありません。


数日前、ある会で平岡豊惠先生という、
80代の今でも現役として教壇に立つ明るいパワフルレディーのお話を聴きました。
平岡先生とは毎週金曜日の早朝、
積極人間の集いでご一緒させていただくのですが、
いつも笑顔で好奇心一杯の生き方から元気をいただいています。

平岡先生は脚がお悪く、いつも杖をつきながらゆっくりと歩いておられます。
けれど数日前のその会では、
約一時間の講演中、椅子に腰掛けることなくずっと立ちっぱなしで、
かつ大きな会場に響き渡る朗々とした声でお話を聴かせてくださいました。

小学校の代用教員にはじまって幼稚園の園長、
小学校の教頭、校長と歴任されたその間のお話は、
ただ懸命に子どもたちと関わってきたその事実のみを話されるだけで、
聴く人に対して何より大きな生きる力を与えてくれます。

脚がお悪いにも関わらず、
一時間もの間、背筋を伸ばして話をされた平岡先生のそのお姿は、
真剣に生きる平岡先生のまさに生きる姿勢そのものだと感じました。

話された内容そのものは、
数ヶ月前に積極人間の集いでお聞きしたものと一部重複していましたが、
本当に心の奥、体の奥、経験の奥からにじみ出た言葉は、
何度耳にしても決して色褪せることがありません。


その会では、別の年配の男性も短時間お話をされたのですが、
その人は、会が始まった当初から腰を曲げ、
椅子に寝そべるようなだらしない格好で座り続けていました。

その人の話は、世界的に有名なある事件に不思議な法則性があるということを、
ホワイトボードにいろんな文字や数字を書き並べながら解説してくださったのですが、
ただの知識の羅列で、その不思議な法則性がどのような意味があり、
またそれを知ることによって、
その人や聴く人たちの生き方にどのような影響を与えるのか、
何を学び、感じ取ればいいのかということがまったく伝わってきません。

それは伝わってこないのではなく、
伝えるべきものが何もないのだと思います。

背骨が体の中心線としての機能を果たしていない人間の、
頭だけ、知識を切り売りするだけの世界です。


心と体はひとつであり、
正しい姿勢を保つ力が衰えてきているということは、
その人、その民族の力の衰えと等しいことです。

哲人森信三先生の言われた『教育の基本は立腰(りつよう)にあり』
という言葉の持つ重要性を、
今こそ再認識すべきです。



正しい姿勢で生きることは、幸せに生きる基本であり、
『正しい姿勢 = 幸せ』とまでは言い切れないにしても、
正しい姿勢であることは、幸せを感じ取る力に直結していることは間違いありません。

そのようなことをインドを訪ねた際のレポートに書きました。
未読の方は是非ともお読みください。
  「南インドで学んだ喜びと幸せ」(HTML版)
  「南インドで学んだ喜びと幸せ」(PDF版)

肚に力があり、体の中心線を強靱に保っていれば、
こんなことまで可能なのです。



ものの豊かさ、心の豊かさ、幸せを感じる生き方、・・・
これらと正しい姿勢とは、切っても切れない密接な関係です。
完全に連動したものだと言ってもいいでしょう。

幸せを感じ、幸せになるための体とは、
正しい姿勢を保ち、主体的な考え方のできる肉体とはどういったものなのでしょう。

それを明確にし、それを育てるカリキュラムを作り上げ、
本当の『体育』の意味を問い直すことは、
私たちに早急に求められている課題です。


姿勢を正し、体の深い部分からの声を聴き取ることができたならば、
今まで気付かなかった幸せを感じ取ることができるでしょう。

2012.7.1 Sunday  
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