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道筋<2>

「我が魂の遍歴と新しい時代の理」を久し振りに読んでみて、
自分のスピリチュアルな思いや半生の流れを、
思いの外うまく表現できていることに少し驚きを感じました。

このホームページにいくつもあるコーナーの中で、
最初から最後までひとつの流れに沿って書き上げたのは、
この「我が魂の・・・」ただひとつです。

これを書いたのはちょうど二年前、
公衆トイレ掃除の活動をスタートし、
スピリチュアル人生の転機を告げてくれたカトリックの女性と出会い、
思いをひとつにする私の大親友に大きな不幸が訪れ、
自分自身の禊ぎと決意の表明として、あの文章を書きました。


文章を書き、それをネットにアップするということには、
いくつかの意味があります。
  ・自分の考えを文章という形にまとめ、整理する
  ・多くの人に自分の考えていることを知ってもらう
  ・そしてそれを自己決意表明とする
  ・それを書いた時点での自分の考え方を、足跡として残す

書くことによって、自分の中に新たな発見をすることもあり、
またその反応によって、外なる世界を知るキッカケともなります。

本音で書かせていただくと、少し残念ではありますが、
「我が魂の・・・」を多くの人たちに読んでいただいたその反響は、
あまりにも少なく冷めたものでした。

私の生き様に興味がないのは致し方ないとしても、
自分なりに真理と感じることを、
できるだけ分かりやすく濃縮して表現したつもりだったのですが、
ほとんどの方は、そういったことには関心がないようでした。

まだ時代は、多くの人が「生命の実相」といったものに興味を示すほど
深まってはいないのでしょうか。
生命の実相よりも、
その表面に現われるノウハウの方が一般の人たちの関心を惹くようです。

だけれども、いやだからこそ、
私はすぐに得になることにつながらない「深い真理」を
追い求めていきたいと思います。
それが自分に与えられた天命であり、
胸の奥深くにある魂が、それを望んでいることを強く感じます。


このホームページでは宗教の言葉を数多く引用しています。
そして私のスピリチュアル人生の出発点である天理教のことについても、
実体験やそこで学んで事についてたくさん書いています。

こうしてホームページに自分の考え方を綴っていると、
本当にたくさんの方からメール等でメッセージをいただき、
その後電話でお話しをしたり、
実際に会って交流を重ねている方も少なからずおられます。

それは私にとっての貴重な財産であり、
とてもありがたいことだと感じているのですが、
ごくたまに、我が拙文の断片のみを読み、
私を何か特定の宗教の狂信者(カルト)だと誤解をする方がおられます。

それだけ人は、
「特定の教えを尊ぶ」という行為に嫌悪感を覚えるのでしょう、
それはこれまでの宗教が積み重ねてきた罪であり、
また今はひとつの時代の終末期を迎え、
そういった旧来の価値観の醜い部分が露呈してきているということでもあります。


それでもあえて、私は自分の出発点が宗教であることに誇りを感じています。
そしてその宗教に導いてくださった私の先生が、
今でも一人の宗教家として尊敬できる存在であることに、
深い感謝をしています。

またそういう出合い(出会い)であったからこそ、
私はここまでスピリチュアルな世界への思いを深めることができました。
ベタな表現ではありますが、
その素晴らしい最初の出合いに導いていただけたというのは、
私自身の徳なのだと思います。
私の徳は、私の両親や先祖が積んでくれた徳でもあります。

その与えていただいた徳に対しては、
報恩という形で返していかなければなりません。


私は何事も、思っていることをストレートに表現します。
そこに悪意がなく、大きく人のためになることだと感じたならば、
エキセントリックと思えるようなことであっても、
躊躇なく書くことにしています。

けどそんな時は、ほんの少しはためらいがあり、勇気がいり、
軽く深呼吸をしたりするのです。

これは以前も書いたことですが、
「宗教は真理を伝える」というのは誤りだと思います。
真理とは普遍的なものであり、『上善水の如し』という言葉があるように、
本当に深い真理とは、水や空気のようにさりげないものであり、
人に教えられたり文字に書き記したりできるものでもなく、
自らが感じ、気づくものだと思います。

宗教の教えの中に真理はないというのは言い過ぎかもしれませんが、
少なくとも、その中で真理とされているものは、
真理の外観を述べたもの、
あるいは真理を感じ取るための道筋を示したもの、
その程度のものではないかと思っています。

宗教のよさであり力の源は、普遍性を捨てたところにあります。
普遍性から離れ、ある特定の時代、民族の意識や習慣に焦点を絞り、
その条件において最も人の心を惹きつけ、動かし、
また悩みから解放できる方法を示したもの、
それがその組織や教えというものを絶対と捉えるこれまでの時代の宗教、
および宗教団体の特質です。


プロ野球中継をテレビで見ると、
画面にはバッターやピッチャーが大きく映し出され、
ファインプレーは何度も繰返し、時にはスローモーションで流れ、
その画面に対して解説者が親切なコメントを与えてくれます。

そんなテレビを見慣れた野球ファンの子どもが初めて球場に足を運んだ時、
遠くの方でただ淡々とプレーが進む現実の野球の試合に、
驚きと失望を感じたという話を聞いたことがあります。

真理と宗教の関係は、この話と似ています。
やはり真理は上善水の如しです。
真理が大きな意味と力を持ち、それを私たちが感じ取るためには、
受け手側の我々自身が精神的に大人になり、
受け取るための感性を高めている必要があります。

そのためにはたくさんの経験が必要でしょう、
また何らかの試練を乗り越えなければいけないかもしれません。
そしてそれがまさに今、この時代なのだと思われます。


これまでの時代の宗教(団体、組織、教義)は、
ひとつの大きな役割を終えようとしています。

しかしそれでもなお、
私は自分自身のスピリチュアルな世界の出発点が宗教であったことを、
とても幸いに感じています。

海外旅行に出かけると、
日本や日本人の特質がハッキリと理解できてくるように、
強い求心力を持つ宗教世界の中で、命懸けで真理を追い求め、
人助けの道を歩んでいる多くの素晴らしい宗教家の方たちと
身近に接してきた私の目から見ると、
ひとつのブームのような、あるいはファッションのようになっている
今のスピリチュアルムーブメントの姿には、
ご都合主義でとても危ういものを感じます。

たくさんの素晴らしい宗教家、スピリチュアルな世界の方々、
みなそれぞれ信じるものや死生観は様々でしょう。
そしてその原点となるものは、
一神教や多神教、釈迦やイエス、
そういった教義内容や教祖の違いにあるのではなく、
いかに真剣に真理を追い求めようとしているか、
自分の幸せのベクトルと周りの人たちの幸せのベクトルとを、
ひとつにしようと日々努力しているのか、
このことにあるのだということを知りました。

これはこの三十年間、様々な宗教にはじまって、
たくさんのスピリチュアルな体験を重ねてきた結果得ることのできた
私にとってのとても大切な真理です。

言葉ではうまく表現できませんが、
それを感じ取れるに至るこれまでの道のりにはけっして無駄などなく、
またこれから主流から外れようとしている宗教がスタート地点だったからこそ
感じ取れるようになったのではないかと考えています。

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2011.9.18 Sunday  
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