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支援

カンボジアに行き、支援とはなんだろうかと考えました。
豊かな国日本は、世界の貧しい多くの国々に支援をしています。
ODA(政府開発援助)の額は2,009年度で約95億ドル、世界第五位ですが、
2,000年までは10年間世界トップでした。

今のところ日本はまだ物質的に豊かですが、
ODAの対象となっている貧しい国の人たちの方が、
幸せそうな表情をしていることが多いということに、とても違和感を覚えます。

支援をする側とされる側、
本当に支援するべきもの、私たちが共有するべきものは何なのか、
今はそれを問い直す時期に来ていると感じます。


ODAの内容は、お金であったりモノであったり技術であったりするのでしょうが、
相手の国にとって本当に役に立つ援助、支援は何なのかを考えるのは、
大変デリケートで難しい問題です。

政府の行うODAだけではなく、
民間レベルでも発展途上国と呼ばれる国々への支援はさかんに行われていて、
私もその一端に関わらせていただいています。

その支援の中で、『相手の国の役に立つ』ということを、
どのレベルで考えるかによって、
その支援する方法や意義というものは大きく変わってきます。

物の見方、考え方というものは、それをどの立場で見るかによって異なります。
モノが豊かになり、技術レベルを上げることが目的なら、
お金やモノ、技術を提供すれば目的は達成されます。

それが悪いとは言いませんが、
国を支援するということは、
その国の人々を幸せにすることが最終目的であるはずであり、
それを求める上において、
「人の幸せとは何であるか」という命題を外して考えることはできません。


お金やモノや技術を提供するということは、
その国の文明化を進める支援をしていることであり、
文明化が即人々の幸せに繋がらないという現実を鑑みると、
ただ物質的、技術的支援というものだけでは、
その国の豊かさが、国民の幸せに繋がらないものになってしまう危険性を感じます。

医療支援、農業支援、あるいは災害からの復旧という支援もあります。
病や飢餓、災害から人命を救う支援活動は尊いものです。
けれどもそれが貧困国の爆発的人口増加に拍車をかける結果に
繋がらないとも言えませんが、
これは理屈を超え、やはり命を守る活動は、
人道的立場からまず行っていかなければならないことです。


話は少し変わりますが、
今日は、7月下旬に行った祝島のことを考えていました。
その日のことを含め、引き受け気功の次回会報に文章を書かせていただくので、
「祝島の旅」を読み返していたのです。

そしてネットでいろいろと検索し、祝島を舞台にした原発反対のドキュメント
『祝の島(ほうりのしま)』予告編 を見ました。



この中で原発建設に反対する祝島の女性が、中国電力の社員に向かって、
「命を懸けてやったことがあるか、何か?」
と唇を震わせながら問いかけていますが、この言葉が胸に響きました。

風光明媚な祝島は、穏やかな空気が流れ、
のんびりと人々が暮らすとても素敵なところです。
しかしその島での暮らしを支える陰では、
島の人たちの「命を懸けた」生活の営みがあるのだという、
当たり前の現実を見た思いです。

自然は時として猛威をふるいます。
そんな中、海と山とを生活の糧を得る場として、自然とともにのんびりと、
けれども真剣に日々生きているからこそ、
あの穏やかな日常の空気が流れているのでしょう。

私たちは、時には命の危険をさらし、動物的感覚呼び戻すことがあるからこそ、
本当の幸せというものが体現できるのです。
これは人間という動物の持つ本性のひとつです。


文明化というものは、言葉を変えるならば、
この命を危険にさらすというリスクを減らしていく流れに他なりません。

自然災害から身を守るためにダムや堤防、頑丈な家を建て、
食糧危機に備えて食料を備蓄し、医学を発達させ、・・・
リスクのほとんどない社会は快適ではありますが、
動物的感覚をどんどんと退化させ、
体の奥底から湧き上がってくる幸せというものを感じられないようにしてしまいます。

本当の幸せを求める道は、文明化とは軌を一にしません。
この事実をハッキリと自覚した上で、
支援をする国々には、物質的、技術的支援とともに、
プラスアルファのものを提供していかなければなりません。

それが何なのか?
その問に対する答を見つけるのは至難の業です。
もしかしたら私たちには見つけることができないかもしれません。
なぜならば、私たちより貧しい国で暮らす彼らの方が、
幸せへの道を、一歩も二歩も先に進んでいるかもしれないからです。


文明という光の陰には、その対極の深い闇が潜んでいます。
この世はすべて相対です。
陰と陽、男と女、光が強ければその闇もまた深いのです。

今は短いスパンで800年に一度、
長いスパンでは何千年、何万年、あるいはそれ以上の
大きな陽から陰への転換期です。

これまでは陽である文明の光だけを見ていればよかったものが、
もうその裏の陰の部分を無視することができなくなってきているのです。


人命を救う活動を考えるならば、
まずは大量の飢餓難民を抱えているソマリア等アフリカ諸国に
目を向けるべきでしょう。
西の文明圏であるアフリカは、残念ながら、
これから物質的状況が改善される見通しはほとんどありません。

伸び栄える文明の波に乗る東南アジアの国々も、
その繁栄の恩恵に浴しているのは主に都市部の人たちで、
貧しい農村地帯の人々は、昔ながら生活をしています。

私の行く南インドでは、温暖な気候に助けられ、
餓死者はいないとのことですが、
日々裸で暮らし、少しでも日銭を多くもらうため、
我が子を意図的に不具者にするという悲しい現実があり、
都市部の路上にはストリートチルドレンがあふれています。

そんな現実を少しでも改善できたらという思いで、
「南インドの孤児を支援する会」を立ち上げ、
今年もまたできれば南インドの孤児院に行きたいと考えています。

けれども私のできることは限られています。
限られてはいますが、それを行うことによって何かを感じ取り、
またインドに行き、そこで新鮮な目で日本とは違った現実世界を眺めることによって、
日本に暮らす日本人という自分の立場をより深く見つめたいという思いがあります。


支援というのは本当に難しいものです。
支援するつもりが、逆に向こうから支援されていることもあります。

たとえばこのたびの震災のように、この日本国内における支援も、
海外への支援も、
その本質的なものはまったく変わりがないと感じます。

このたびの震災では、外からの支援がなければ、
命を保つことすら難しかった人たちがたくさんおられたと聞きましした。
そしてその支援活動は、本当に尊いものだと思います。

けれども私の知り合いで、
戦後朝鮮半島から子どもたちとカバンひとつで引き上げてきたあるご婦人は、
とても穏やかで普段人を非難することなどほとんどない方ですが、
自らの体験を振り返り、比較して、
「被災者の方たちは甘えすぎている」と評されています。

それが正しい意見かどうか、それを判断することはできません。
ただ言えるのは、人によって幸せの価値観が様々であるように、
支援というものに対する考え方も、また様々であるということです。


この支援という問題に、安易に結論づけることはできません。
できませんが、あえて言葉で表現するならば、
まずは相手を思う温かいハートを持つこと、
そしてその思いを行動で表すこと、
その行動をする時に、何が相手にとって本当の意味での支援になるのか、
それを深いところまで見つめる目を持つこと、
この三つが必要だろうと考えます。

そして最終的には、自分が幸せになり、
日本が本当の意味での豊かさを体現できるようになることが、
すべての国、人類全体への支援であり、貢献になるものと考えます。

自分がすべての出発点でありゴールです。

2011.9.6 Tuesday  
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