ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



手助け

今日街中を歩いている時、
白い杖をついた盲人の方と出会いました。
その方はサングラスをかけておられず、
目は大きく開けておられましたが、
その様子から、全盲の方のようでした。

白い杖を斜め前方で大きく横に振り、
せわしない様子で歩く姿は少し危なげで、
無意識にその方の方に目を向けていたのですが、
大きな道路を右に曲がろうとして歩く方角はどんどんと道の端の方に向い、
目の前に立っている電柱に気づく間もなく、
その電柱にぶつかってしまわれました。

私も一瞬の出来事で、声をかけることができなかったのですが、
ぶつかる直前に衝撃を和らげたのか、
あるいはそんなことは慣れっこなのか、
はたまた気恥ずかしいという気持ちが先に立ったのか、
その後何事もなかったかのようにその場を立ち去って行かれました。

再び歩き出したその方の前方には大きな障害物はなく、
特に不安な要素はなかったのてすが、
電柱にぶつかったこと、
またその先歩いて行かれることに対して、
何か声をかけるべきかどうか、
少しだけその場に立ち止まって考え込んでしまいました。


人様のお役に立つことをするというのは本当に難しいことです。
昨日前項の「支援」というページを書き、そのことを考え、
その考えた結果として、今日のこの出来事を見せられたように感じます。

その盲人の方にとって、何をさせてもらうことが本当の親切なのでしょう。
電柱に当たる前に、声をかけることができればよかったかもしれません。
けれども電柱に当たることによって、
その電柱の場所が頭の中に深く刻まれ、
二度と同じ失敗を繰返さないですむようになるかもしれません。

ほんの少しの時間でも、手を引かせてもらえばよかったのでしょうか。
けれど私が手を差し伸べることができるのは、
ほんのわずかな時間だけです。
その方は、たぶんほとんどの時間を、
自らの杖を頼りに歩かなければならないはずです。
そんな状況の中で、微々たる親切をさせてもらうのは、
親切をする方の自己満足にしかならないのではないでしょうか。


深い次元で考えたならば、
その方は自らが望んで盲人となり、
盲人でしか体験し得ない何かを感じ取りたいと望んでいるのだと思います。

そこで感じ取り、身に付けたもの、それが「知恵」です。
けれども知恵というのはいかようにも解釈でき、
必ずしも善なる働きをするとは限りません。


お腹をすかした子どもに、魚を与えれば一日生きることができます。
魚の採り方を教えれば、一生食べるのに困ることはありません。
その子どもに魚を観察させ、自ら魚の採り方を考え出させれば、
魚の採り方だけではなく、他の多くのことにも知恵を使えるようになるでしょう。

これは素晴らしい知恵の教えだと思いますが、
私たち人類はこの知恵、あるいは技術や知識を大きく発展させ、
生態系を含めた自然環境のあらゆる面を、
壊滅的なまでに破壊し尽くしてしまいました。

魚の採り方、そこにある知恵や技術も大切ですが、
それが私たちの生きるということにどう関わっているのか、
また生きるとはどういうことなのか、
すべての問は、その最も根底のところから発せられなければ、
いつか色褪せ、崩壊してしまう運命にあります。


私たちは、生活する技術は高度なものを有していますが、
生きるという根底から考えたならば、
まったく一歩先も見通すことのできない、
盲人と同じ状態であると言えるかもしれません。

今はその根底を問い直す時であり、
だからこそ地球環境や社会は混乱し、
ほんの少し先にある大きな飛躍の時を待っているのです。


助けるということの基本は「自助」だと考えます。
まずは自分であり、自分がすべてです。
自らがその根本である己というものを見つめ、
その見つけたものに明かりを灯し、
その明かりに向かい、一歩ずつ己の内側に向かって歩を進めて行く、
それが自助であり、それができてはじめて、
人様の手助けもできるのだと考えています。

2011.9.7 Wednesday  
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