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言葉の役割<1>

「更新」というページをアップし、
もうこれからは毎日更新はしないと宣言したのは二ヶ月以上前ですが、
最近また休まず更新する日々が続いています。

決して無理はしていないつもりですが、
書きたいテーマがある時は、
その思いを引き出し、文字として表現することが、
自分にとって成長の糧になるものと考えています。

また正直言って、せっかくここを訪ねてくださった人に、
更新したページがないということでがっかりさせたくないという思いもあります。
これはアクセス数の減少にもつながることで、
本来は捨てなければいけない私の中の恐怖心です。

日々文章を書くトレーニングを積んだ結果、
以前と比べると、だいぶ短時間で文章が書けるようになりました。
それでもやはり長いページを書く時は、
三、四時間、あるいはもっと時間のかかる時もあります。

できるだけ短時間、短文でとも思うのですが、
それでは本当に表現したいことをなかなか伝えることができず、
また誤解を生む表現になってしまう可能性もあり、
なかなかそっちの方向には踏み切れずにいます。


基本的に、言葉を通して真理を伝えることは不可能です。
真理とまではいかなくても、思いでもそれは同じです。
心の中で感じている思いは、
本来言葉として浮かび上がってくるものではありません。
それを言葉で表現する時は、
その思いに近い表現を言葉の中から探し、
その思いの外観を言葉でなぞらえているにすぎません。

けれども言葉には力があります。
言霊という言葉があるように、言葉によって思いが強化される面があります。

言葉によって強化された思いは、
最初に心の中に浮かんだ漠然たる思いと、
完全に一致するとは限りません。

言葉によって新しい形が生まれ、
言葉によってその新しい「思いの形」が強固なものへと形作られていくのです。


私はこれまでこのホームページに載せるためにたくさんの文章を書き、
そのお陰で自分の思いというものをしっかりと確立することができました。
これは言葉の力です。

その思いから生まれた言葉は、いったん大きく動き出すと、
今度は逆に言葉の力でもって思いそのものを動かそうとするようになります。

これはハンマー投げにおける選手とハンマーとの関係に似ています。



ハンマーを投げようとする選手が思いで、
ハンマーが言葉です。

まずはじめに思いが湧き上がり、選手が動きます。
その動きが言葉であるハンマーに伝わり、
少しずつ互いに連携しながら、
選手もハンマーも大きな回転エネルギーを得るようになってきます。

最初の段階では選手の動きが主であり、
ハンマーの動きは従であったものが、
互いに速度を増すにつれて対等な関係になり、
大きな慣性の力を持つようになったハンマーの力に引っ張られ、
思いという選手の動きは、
最終的には自力で制御することができなくなります。

そうなったら、思いが自由な動きを取り戻すには、
大きな力を持った言葉というハンマーを手放すしかないのです。

言葉は大きな力を持っていますが、
それに囚われたり、頼り切ってしまうと、
自分を見失い、言葉に振り回される結果となってしまいます。


もうひとつ例をあげましょう。
私は三年前にはじめて南インドを訪ね、
そこでたくさんのことを感じ、学ばせてもらい、
その時の印象は、今も胸に強く刻み込まれています。

今も強く印象に残っている理由のひとつは、
その時感じた思いを、帰国後すぐにレポートとしてまとめたからです。
  「南インドで学んだ喜びと幸せ」

レポートを書く段階で、頭の中の思いを整理し、文字にしました。
そして書き終わった後も何度か読み返し、
また思い出したりもしています。

南インドで感じたことはたくさんあります。
大きなこと、ささいなこと、また言葉にできないようなこともいくつかありました。
けれどもレポートを書くにあたり、
それらをポイントごとにいくつかにまとめ、
自分にとって、また読んでくださる方にとって分かりやすいように、
文字として整理する作業をしました。

このレポートに書かれているものは、
私の思いそのものではありません。
私の思いを要点ごとに分かりやすくまとめたものです。

本当の思いは、言葉によって近い表現をすることはできても、
そのままを文字として表すことはできないのです。

けれども南インドで過した日々が遠ざかるにつれ、
頭の中に存在している実態としての思いが少しずつ薄れ、
それに代わって、レポートに書き記した要点としての南インドの印象が、
あたかもそれが実像であるかのように大きなウエイトを占めるようになっています。

今でも「その時に感じた南インドの印象は?」
と尋ねられると、言葉としてスラスラと出てきます。
それはレポートを書いたからであり、
私の口から出る言葉は、
ただレポートの内容を反復しているに過ぎないのです。


昨年も一ヶ月半南インドに行きました。
この時はとても複雑な思いに駆られ、
日本に戻ってからも、その思いを言葉としてまとめることができませんでした。

けれどそのお陰で、
昨年の南インド旅行のことを聞かれると、
頭の中の実体験としての南インドの記憶をひとつずつたぐりながら、
言葉を探し、丁寧に答えることができます。
また、そうしかできません。


今は新しい時代への門をくぐろうとしている時であり、
旧いものを手放すということが大きなテーマです。
以前こんな言葉を聞いたことがあります。(詳細不詳)

  ものを持ちすぎるものは不幸である。
    ものが主人になり、持ち主は家来になる。


これは “もの” の部分を “言葉” に置き換えてもそのまま通用します。

  言葉を持ちすぎるのは不幸である。
    言葉が主人になり、持ち主は家来になる。



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2011.7.21 Thurseday  
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