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自分の中の基盤<2>

タイトルの「自分の中の基盤」という言葉があるのであれば、
「自分の外の基盤」というものもあるのだろうか、
そんなことを考えてみました。

自分の内なる世界と外なる世界は鏡の関係、
自分の内側に基盤があるとするならば、
外側にも基盤があってもおかしくありません。


「自分の内を知ればすべてが分かる」
これは真理ではありますが、
普通の人間はなかなか内側の気付きだけですべてを感じ取ることはできません。

面壁九年、だるまさんで有名な達磨大師は、
洞窟の中で9年間壁に向かって瞑想し、悟りを開き、
その間手足が腐ってしまったことにも気付かなかったと言われています。

この達磨大師ぐらいの大賢者ならば内なる気付きやひらめきだけで
すべてを知り、悟ることができるのでしょうが、
そんな人はごくごく限られた聖人だけです。

自分の内面の変化は、内側からわき上がってくる感情、感覚とともに、
身の回りの環境の変化によっても知ることができます。

身の回りの世界はすべて自らが望み、創り上げたものです。
ですから周りの変化によって、
自分の心の変化と人生の流れを知ることができます。

もし自分の付き合う人や環境が少しずつ変わっていったなら、
それは自分の心が変化したのか、
あるいは自分の心の奥底が、新たなことを感じたい、経験したいと
望んでいることの表れでしょう。

その周りの変化を真摯に受け止め、
感謝とともにその変化に対応していったなら、
それからは身の回りに起こる変化は、
その意味というものをより明確に表してくれるようになってきます。

身の回りで起こることはすべて自らが望んだものであり必然です。
そこから何かを感じたい、経験したいという意図で創造したものであるのですから、
自分にとって都合のいいことよりも、
都合の悪い嫌なことの方が深い意味を持っていることが多いものです。

本来だったら避けて通りたい嫌なことこそ喜びを持って受け入れ、
そこから何らかのものを感じ取るべきです。
それが「福は外、鬼は内」の引き受け気功の極意であり、
最も汚れたものを通して心を磨くトイレ掃除の神髄でもあります。

人生における苦難を避けて通っていれば、
そこから何かを感じ取りたいという真我の望みを拒否することになり、
また同じような困難が再び現われてきます。
そして再び訪れたその困難は、
以前のものよりも確実に大きなものとなっているはずです。

逆に困難と真正面から立ち向い、それを乗り越えていったなら、
そこで感じ取るべき課題は終了となり、
再び同じようなことが起こってくることはありません。

大昔、天理教の先生からこんな言葉を耳にたこができるほど聞かされました。
「因縁なら通らにゃならん、通って果たさにゃならん」
宗教ですから善悪二元論に基づく考え方なのですが、
この「因縁の通り果たし」というものは、誠に真理であると、
これまでの人生において何度も感じる場面に出合ってきました。

人生で起こる出来事はすべて必然で意味があり、
それを正面で受け止めることから次なる世界が始まります。

私が今のスピリチュアルムーブメントに若干の違和感を感じるのは、
「すべてのものに感謝」と言葉では言いながら、
様々なテクニックやグッズを駆使し、
自分にとって楽で都合のいいものだけを引き寄せ、
真に自分の心や人生と対峙しているとは思えない点があるからです。

すべてのものに意味がある、すべてに感謝、
これがどういうことなのか、深く感じ取ってみてください。


自分の中の基盤、外の基盤、
中の基盤は何事にも動じない確固としたものがあるということ、
外の基盤、やはり言葉の表現としてちょっとしっくりきませんが、
外の世界の基盤は、
そこで起こってくることの因をすべて自らに求められるかということでしょう。

内なる世界は自分もの、
そして外なる世界もすべて自分、
すべてはひとつであり、すべては自分であり、すべては必然である、
そう考えられるようになって、
初めて何事にも動じることのない自己の基盤が確立されます。

その自己というものは、
自分の内、外というものを超えた存在です。


それともうひとつは、外なる世界に対する自分の心の変化を、
いかに客観的に見つめられるかということです。
客観的というのは、表面的な自分の心の動きを、
自分の心の奥から、あるいは自分の外側から、
別の視点でもって眺められるということです。

外の世界からいろんな刺激を受け、
それを感じ、楽しむのは素晴らしいことです。
そしてその楽しみを、より深い所から冷静に感じ取ることができたなら、
その刺激はより一層味わい深いものとなります。

それが別の視点から眺めるということであり、
これは私自身が体で感じていることです。

私はもう十年以上「体との対話」を続けています。
これは私にとって最高の健康法であり、
最高の感謝の表現方法です。

この体との対話を続けてきて、
自分の心と体、表面の意識とより深い真我、あるいは霊や魂といったものが、
別のものであるという感覚がどんどんと深まってくるようになりました。

体は今世の乗り物として自らが創り出したもの、
あるいは両親、ご先祖様、天から授けていただいたもの、
そういった感覚が芽生えてきて、
本当の自分とは、この肉体ではないという感覚が、
今の私にとっては当たり前のようになってきています。

肉体は疲れることもあれば痛みを感じることもあり、
また喜びを感じることもあります。
それは肉体を通してそれを感じ取っているということであり、
テレビを通していろんな情報を受けとっても、
テレビはあくまでもその情報の受け渡しをする機械に過ぎないのと同じように、
肉体もまた本当の自分と外部とを結ぶ橋渡し役に過ぎないのです。

その橋渡し役である肉体や表面的な感情の奥にあるもの、
それが本当の “自分” であり、
そこに常に意識の焦点を当てることができたならば、
肉体的な刺激や感情の動きに肉体や意識の表面は揺れ動いても、
その奥にある基盤である本当の自分は動じることがないのです。

体外離脱をした時に寝ている自分の姿を少し上から眺めるように、
揺るぎない自分から、自分の体や表面の意識を見つめているといった感覚です。

この感覚は言葉で表現するのが難しいですね。
普通の人は意識の中心は頭の中にあるのでしょうか、
少し誤解を招くような表現ですが、
私の意識の中心は、常に頭の少し外側にあります。

頭の中に意識のある自分を、
外側からもう一人の自分が見ているといった感じです。

この感覚がオーソドックスなものであるとは思いませんが、
私と同じように体との対話を長く続けていけば、
体で理解していただけるものと思います。

体との対話は本当に素晴らしいものです。
体との対話はきわめて簡単で効果的な内観法であり瞑想ですね。
今こうしてキーボードを叩きながらあらためて感じます。


安定し、動じない自己の基盤を築くには、
周りのすべてのものは自分が創り出したものであるということを知ること、
そして肉体や表面的な意識の奥にある自己を見つめるということです。

その他にも感情を手放したり志を持ったり等いろんなことがあるでしょう。
そのすべての最終目的地は、言葉で言うならば無為自然、
自分の内に最高の輝きを見つけるということです。

自分の内、自己ってどこにあるのでしょう。
もし肉体の内側ならば、体の表面から数センチの距離ですね。

この最も近くて最も遠い場所への旅、
これがすごく楽しいんですよね。

そして今はそれを楽しむための最高の条件が揃っているのですから、
こんな幸せなことはありません。
まずは旅の準備として、そのことを知ろうではありませんか。

心の旅の終着駅は光り輝く楽園であり、
誰もがいつかは必ずそこに到達できます。
私はそう信じています。

2010.12.14 Tuesday  
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