ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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魂の友

身の回りのものはすべて自分の思いが創り上げたもの。
ですから人との出会いも偶然は何ひとつありません。
袖触れ合うも多生の縁、隣近所の毎朝挨拶を交わすおばさんも、
きっと何かの縁で導かれた人なのでしょう。

けれどもすべての人との関わりに、
いちいち必然だ、偶然だ、はたまた運命だなどと考えることは普通ありません。
人との出会いや運命は、時の流れと同じように、
水の如く、普段は意識することなくサラサラと流れていくものです。

そんな中で、この人との出会いは特別で、
自分の運命を大きく左右する深い意味を持ち、
きっと過去世から持っている自分の心の中のメッセージを気づかせるため
目の前に表れてきたんだな、と思えるようなことが、
長い人生において何度かあります。

そしてそのような出会いには、
それが必然であるという意味を込めて、
不思議なサインが秘められています。

とても偶然とは思えないような事が何度も起こったりすることが、
「魂の友」とも呼べる人との関わりの中では、必ずと言っていいほどあります。

これは自分にその出会いの意味を知らせるための
「神のご守護」なのでしょう。
とても大切にしなければいけないメッセージです。


今振り返ってみると私の場合は、
そのような奇跡的なメッセージがものすごくたくさんありました。
とてもすべてはご紹介できないのですが、
自分の中で時折思い出し、その意味を何度も噛みしめ、
深く心に刻まなければいけないのだと思います。

私とインドとの関わりもそうですね。
平成元年、初めての海外旅行でインドに行き、
一歩足を踏み入れた時から胸の中に何とも言えない懐かしい感情がこみ上げ。
その後日本で何人かのインド人と知り合い、
「あるヨギの自叙伝」を読んで、我が師パラマハンサ・ヨガナンダの世界に
心ひかれるようになりました。

翌年勤めていた会社を辞め、岡山から広島に引っ越してきました。
広島に来てすぐにグループでツアーを企画してアメリカのロサンゼルスに行き、
そこで泊まったホテルが、
ヨガナンダが入滅した場所であるビルトモアホテルでした。

それとこれもどこかで書いたかと思いますが、
サンギータ・スーリーという女性との出会いもまさに意味ある奇跡でした。

インドから帰って、岡山県倉敷市に住むジェシカというインド人と知り合い、
彼女の友人で茨城に住むサンギータ・スーリーという女性と、
年末の一日、三人で車に乗って
瀬戸内のエーゲ海といわれる牛窓までドライブしました。

サンギータはデリー出身のバラモン(最上位の僧侶の身分)で、
利発で日本語も上手く、すぐに心が打ち解け、
別れ際には「サカイとは前世で兄弟だったのかもしれないね」
と言ってもらえるほどになりました。

翌年広島に引っ越し、
顧問先でインドに興味を持っている女性と出会いました。
彼女が結婚のために退社した後、
彼女が婚約者と一緒に街中を歩いているところを偶然見かけました。

立ち話で少し話をしたところ、
婚約者の彼は茨城でサンギータと同じ会社にいて、
新婚旅行先のインドでは、サンギータの実家に泊めてもらうということが分かり、
その不思議な偶然に驚きました。


その後もずっとインドに心ひかれ、
四年前、911テロの真相を伝える講演会で東京に行った際、
平和運動つながりの日本山妙法寺板橋道場に泊めていただき、
そこでインドで平和運動に精を出しておられる石谷政雄上人と縁をいただき、
翌年インド人ファミリーを含めた6名を車で東京から熊本までご案内し、
それが現在の南インド支援への流れとつながっています。

石谷政雄上人

今ネットで調べたら、石谷上人がカルナという雑誌の表紙になっていました。
石谷上人のお写真を拝見すると胸に熱いものを感じます。
インドへの郷愁がわき上がってくるとともに、
やはり命をかけ、一途に平和願うお上人さんたちの姿は、何よりも尊いものです。

そしてカルナのトップページを見ると、
三年前、石谷上人と行った阿蘇、
二年前に行ったインドの石谷上人の日本山妙法寺サンカランコービル道場で
出会った田中愛子先生のお顔も表紙になっています。
二度ビックリです。

田中愛子先生

私がインドに興味を持っているから石谷上人と懇意になったわけではありません。
たまたま石谷上人と出会い、
請われるままに翌年インドからの一行と二週間寝食をともにし、
そこで親しくなったインド人ファミリーが、
私が三十年間夢見続けていた孤児院のオーナーだったのです。

そういえば、石谷上人は北海道出身で、
私の兄と同じ札幌南高校の二年先輩です。
これも不思議な偶然です。


いろんな奇跡的なサインに彩られた人との出会いは、
これまでいくつもありました。
そんな中で、最も初めてそれを意識したのは、
大学を出て就職した先で同期入社として一緒だったYとの出会いです。

私は一年浪人していますので、Yは私よりもひとつ年下でした。
彼は私とはずいぶん生き様も性格も違うのですが、
そこがうまく噛み合ったのか、なぜか一緒にいて心地よく、
同期の中では一番の仲良しでした。

彼の生まれは私と同じ大阪府豊中市で、家もすぐ近くで、
私が小学校一年生の9月末まで通っていた南桜塚小学校の卒業生でした。

本人の弁によると、
「複雑な家庭環境に育ったため、小さい頃から人の目を意識し、
 人の見方、世渡りの方法を学んだ」
とのことですが、普通の人間にはない鋭い動物的感覚を持ち、
その能力を活かし、学生時代から梶原一騎に弟子入りし、
劇画脚本家としてデビューしていました。

細身の体は鞭のようにしなやかな筋肉質で、
運動神経もたぐいまれなものを持ち、
眼光鋭く、まさに心身ともにサバンナのヒョウのような雰囲気を携えています。

遊びにも長けていて、女性との交友関係もきわめて幅広く、
まさにとっかえひっかえといった感じで、
私はただそれを聞いているだけだったのですが、
なぜか彼の世界には違和感を感じず、
今考えてもそれが不思議です。


Yは頭の切れる素晴らしい才覚を持っている一方で、
とんでもないポカをする抜けた面もあります。

入社研修後、彼は東京、私は島根県へと赴任したのですが、
盆や正月に里帰りした際には、連絡を取り合って二人で会っていました。
ある年の暮れ、連絡が来るはずの彼から連絡が来ず、
家で一人でイライラしていました。
その頃は当然ケイタイ電話などといった便利なものはありません。

待ちくたびれた私は、母に電話があったら聞いておいてもらうように頼み、
奈良の実家から一人で電車に乗って大阪梅田の繁華街に遊びに出かけました。
その梅田の地下街の人混みの中を歩いていると、
向こう側から彼女と一緒に歩いてくるYとバッタリ出会うのです。

私の実家の電話番号を書いたメモをなくしたらしく、
彼女と一緒に方々電話をして私の居所を知ろうと努力していたようでした。
彼女は私を見ながら「信じられな〜い!」を連発していました。

Yとは遠く離れていても、何ヶ月に一度は電話で連絡を取り合っていました。
ある時、数ヶ月ぶりに彼の家に電話をしたところ、
電話のダイヤルを回しても、受話器から発信音が聞こえてきません。

数秒間無音の状態が続いた後、
私が声を発すると、受話器から彼の声が返ってきました。
なんと、彼も私とまったく一緒のタイミングで、
私に電話しようと受話器を取っていたところだったのです。

彼は入社後二三年して会社を辞め、
いろんな事業をして成功をおさめていたようです。

最後に彼と会ったのは二十年ほど前です。
その時彼は、私から連絡があると、いつもその直後に何かいいことがあるんだと
語ってくれました。

才能あふれるYですが、抜けたところや突拍子もないところがあり、
突然連絡が途絶えてからもう二十年になります。
ネットで彼の名前を検索してもそれらしい情報は出てきません。

もう死んでしまったのか、
一筋縄ではいかない人間ですので、
名前を変え、地下社会に潜伏しているのかもしれません。

出会いは必然ですので、再会もまた必然でしょう。
必要があれば、またYと再開する日が来ると思います。


人との出会いの意味というものは、
本来は自分の心の中で感じるものであり、
こうして文字として書いても、なかなか十分に伝わらないもどかしさがあります。

けれどこうして過去の人生の流れを振り返ってみると、
大きな律法によって、確実に自分の魂の導く方向に向かって
歩いているのだということがよく分かります。

何も目先のことに惑わされてバタバタすることはない、
ただ大きな流れに乗り、今の自分を大切にして生きていればそれでいいのだ、
人生の歩みは、私にそんなことを語りかけてくれているようです。

2010.10.30 Saturday  
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