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2019年2月20日 ・・・ メリハリのある暮らし

前回このホームページに書いた
ユーディ・メニューイン国際コンクール、ジュニアの部門で一位を獲得した
クロエ・チュアのヴァイオリンの素晴らしい音色に魅了され、
ここ最近はクラシック音楽、
その中でもヴァイオリンの演奏ばかりを聴いています。

クラシックには様々な名曲があり、
それが演奏者によってまったく異なった雰囲気になり、
かつ同じ演奏者でも、
演奏する時によってまた大きく受ける印象が変わり、
クラシック音楽はまさに無限の扉と奥行きを持つ摩天楼といった趣です。

音楽のジャンルで何が優れているというものはありませんが、
クラシック音楽には次元の深さを感じます。


そのクラシック音楽は、
ステレオで再生することが最も難しいジャンルとされています。
それは最弱音(pp)から最強音(ff)の音圧の幅が広く、
最弱音は音がノイズに隠れ、
最強音で音が割れやすくなってしまうからです。

この音圧の幅をダイナミックレンジと言い、
昨今のポピュラー音楽はクラシック音楽とは逆に、
平均的に音圧が高く、音の流れが平板で、
ダイナミックレンジの狭いものとなっています。

それは最強音にコンプレッサーやリミッターというものをかけ、
音のピーク(頭)をつぶしていることも要因で、
つまりドンドンシャンシャン、音が静まることも激しくなることもなく、
メリハリなく常にいろんな音が鳴り続けているといった状態です。


これはメリハリのない現代人の生活と相似の関係であり、
だからこそ音楽もそういったものが生まれ、支持されるのでしょう。

これまで何度も書いてきましたが、
豊かさとは、ハレとケ、それが明確に別れていて、
そのメリハリのある中にこそ生まれるものだと感じます。

ハレとは、晴れの舞台のハレ、非日常です。
ケとは、日常、日々営んでいる普段の生活です。

ものの豊富さ、利便性、快適性のみを求め続けると、
行き着く先はそれらに満たされた日常、
たくさんのものに囲まれ、便利で快適な日常、
それが変わることなく延々と続き、ハレもケもない世界です。

そんな快適な生活に24時間慣らされると、
人間が本来持っている鋭い五感の能力は不必要となり、
少しずつ鈍くなってきます。

五感の能力とはまさに感性のこと、
その感性が鈍くなれば、
幸せを感じる能力は低下し、
何不自由なくても
そこに喜びを見いだせないといったことになってしまいます。

発展途上国の貧しい子どもたちの輝くような笑顔は、
その豊かな感性によってなせるものです。
子どもとは本来とても感性豊かな存在です。


その感性を取り戻すには、何かを手放すことです。
数年前から断捨離がブームになっていますが、
満たされすぎた現代人が喜びを取り戻すには、
何かを得るのではなく、逆に手放すことが求められています。

今「ストレスリーの時間術」という本を読んでいます。



そこに書かれている事例です。

あるトラック運転手が十代の娘に、
自分が子どもの頃は日曜日に開いている店はなかったと言ったところ、
娘は卒倒しそうなほど驚いたそうです。

そして日曜日は何をしていたのかと尋ねられたので、
「とても退屈だったよ。
 家族で教会に行き、新聞を読み、のんびりとくつろぎ、
 友だちのところや祖母のところに行ったり、みんなで食事をしたり・・・」
と言ったところ、娘は、
「それって今の人たちがみんなやりたがっていても、
 時間がなくてできないことじゃない!」
と言ったそうです。

豊かさとは何気ないところ、
ささいな日常の中にあり、
それを手にしている時はなかなか気づけないものなのかもしれません。


豊かさとは、一日24時間、一年365日、
延々と同じ豊かさ、利便性を求め続けるのではなく、
意図的にそれを手放すこと、
たとえばキャンプに行って野外炊飯をすると楽しいように、
それを一時的に手放し、生活にメリハリをつけることです。

またもうひとつは、何事も徹底して行うということ、
のんべんだらりと惰性で時を過ごすのではなく、
遊ぶ時は遊ぶ、仕事をする時は仕事をする、
それを高い集中力で徹底して行うことで、
生活環境は変えなくても、
その中で自然とメリハリがついてきます。

そしてメリハリがつくことで、
ひとつひとつの物事の“真意”が見えてきます。


山間部の田舎で時を過ごすと、
夕方暗くなり始めて、日が完全に落ちると辺りは暗闇に包まれ、
一気に真夜中になってしまいます。

そしてその後車で都市部へと戻ってくると、
徐々に街の灯りが増えてきて、
深夜に向かう時間帯であるにも関わらず、
時の流れが逆行したかのような感覚に襲われます。

もうそんな都市部の生活に慣らされてしまっていますが、
こんなことをたまに経験すると、
都会に暮らすと人間の持つ動物的感覚が
鈍くなってくるだろうということを感じます。


その都会にあって、最も自然のリズムから外れ、
利便性向上の象徴でもあるのが、
その名の通りとってもコンビニ(convenience、便利なもの)な
コンビニエンスストアです。

その最もポピュラーなコンビニエンスストア、セブンイレブンで、
FCオーナーが24時間営業を拒否し、
本部との間でトラブルとなっていることがニュースになりました。
<「24時間はもう限界」セブン-イレブンFC加盟店が時短営業で本部と対立>

昨今ブラック企業やブラックバイト、
労使関係や労働環境が厳しい職場がよく社会問題化していて、
このコンビニ本部とその個人事業主であるFC加盟店の関係も、
いったん契約を取り交わしたら、
後は生かさず殺さずのとても厳しい状態になるということは、
以前からよくネットに書かれていました。

特に最近はアルバイトの時給も上がり、
アルバイトを常時欠員なく集めることが困難になり、
それらのしわ寄せがすべてオーナーにかかってきて、
過労死寸前のオーナーも珍しくないと聞いています。

昔のセブンイレブンはその名前の通り、
大部分の店が朝7時から夜11時の営業だったものが、
昨今はコンビニの86%が24時間営業とのことです。


昨年福井で大雪が降り、多くの車が立ち往生した際、
その地区のセブンイレブンオーナーが
本部に24時間営業の休止を申し入れたものの断られ、
オーナーが50時間連続で勤務したことが大きな話題となりました。

コンビニ本部とFCとの契約では、
バイトの時給が上がろうが、
深夜の時間帯や福井の大雪の時のようにお客がほとんど入らなくても、
本部に入るロイヤリティー収入には影響がなく、
本部の優位的立場を利用した「奴隷契約」とも言われるものになっています。

それでも最近はスーパーでも時短になったり、
労働力不足のため、少しずつ状況は変わってきてはいますが、
利便性のある暮らしの裏では、
一部の人たちの並々ならぬ苦労があるということを忘れていけません。


やはりもうコンビニな暮らしを求めること自体、
もう限界に達していて、
新たに別の価値観を求めるべき時が来ているのを感じます。

求めるのはコンビニな暮らしではなく、
メリハリのある暮らし、
コンビニの運営に批判が集まるようになったのは、
その象徴だと感じます。

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それにしてもコンビニの闇は深いですね。
24時間営業を拒否したニュースでは、
セブンイレブンのコンビニ本部が批判の的になっていますが、
その拒否したコンビニも、以前からかなり評判が悪いようです。
  <セブンイレブン南上小阪店 - Google 検索>



過労で心が病んだのでしょうか。
何事も裏側も見なければ真実は分かりません。

2019.2.20 Wednesday  
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