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2017年9月13日 ・・・ 感性の時代

昨年初め、ベッキーがゲス不倫で騒がれて以降、
マスコミでは様々な不倫スキャンダルが大きな話題となっています。

今は時代の大転換期で社会の価値観が大きく変わる時です。
そのひとつが金属から水への移ろいであり、
これまで固い絆で結ばれていた組織や集団がその力を弱め、
より自由でしなやかな、臨機応変な繋がりへと変っていきます。

政党、宗教団体、家族制度や夫婦のあり方というものも、
これからより柔軟なものへと変っていくのは自然の流れです。

これまで明確に二極分化されると考えられていた男女の性区分も、
LGBTの存在が公に認められるようになり、
より自由に捉えられるようになったのと同様に、
不倫問題についての認識も、これから確実に変わっていくと思われます。


とは言え、今の社会では家族や夫婦というものは社会に於ける
基本的かつ重要な構成要素と考えられていて、
その社会秩序を乱すものは悪と捉えられるのが一般的です。

最近も多くの有名人が不倫スキャンダルで叩かれていますが、
それらは言い逃れのできない決定的証拠を示されない限り、
「一線は越えていない」、「男女の関係はない」と、
その不倫関係を否定する発言をしています。

やはり不倫は社会的には致命的なマイナス事案であり、
今の日本では刑事犯罪ではないものの、
民事では賠償責任を負わされる不徳なもので、
できれば認めたくないというのは当然です。

そんな不倫スキャンダルの中で、
個人的に最も強い衝撃を受けたのが、
このたび民進党を離党することになった
山尾志桜里衆議院議員のW不倫問題です。

芸能人、芸人、政治家、
そういった人たちに一般の倫理観を当てはめるのはどうかとも思いますが、
彼女の場合、他の政治家の不倫問題は厳しく追求していたにも関わらず、
自らの問題は一方的に釈明するだけというダブルスタンダードは、
まったくいただけない態度です。


今から34年前の1983年の春、
当時は教育にとても興味があり、
学校卒業と同時に、
能力開発で有名な公文式の公文教育研究会に入社しました。

83年の春は、公文の国内生徒数がピークを迎えつつあり、
社名を公文数学研究会から公文教育研究会へと変更した時です。

公文の入社試験を受け面接に臨む前の段階で、
公文のことをよく知るようにと、
「公文式教育法入門」という本をいただきました。

公文式教育法入門―ひとりひとりの可能性を伸ばす公文式教育法入門―ひとりひとりの可能性を伸ばす
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この本には公文式の概要や特長とともに、
公文で育った優秀児の事例が数多く紹介されています。

公文の教材は、すべて段階的に少しずつ高度な内容、
高い学年で学習する内容へと進むようになっていて、
学年相当より半年分以上先に進んだ子どもさんの学習進度は、
三ヶ月に一度発行されてる進度一覧表という冊子に
公開されることになっています。

「公文式教育法入門」の中に、その進度一覧表の一部が載っていて、
81年9月末での小学一年生のトップは菅野志桜里さん、
学習進度はJ150、高校一年生相当の教材と紹介されています。



このような因数分解を、小学校一年生の子どもが解くのです。



この菅野志桜里さんというのが、
後に東大法学部を出て判事になり、
民進党の衆議院議員となった山尾志桜里さん、その人です。


彼女は勉強がよくできるだけではなく、
ニュース等でも報じられているとおり、
小学校6年生の時にミュージカル「アニー」のオーディションを受け、
見事一万数千人の応募者の中から主役のアニーの座を射止めました。



アニーは主役他主要キャストは二組で演じるダブルキャストで、
もう一人の主役のアニーは猪木寛子、
アントニオ猪木のお嬢さんでした。

志桜里さんが初代アニーの主役に決まった時は公文では大きな話題で、
社員にはチケットが割引で買えることになり、
当時は島根県に住んでいましたが、
関西に帰省した折に、志桜里さん演じるアニーを
友人とともに大阪まで観に行ったことを覚えています。

会場となった大きなホールのエントランスロビーには
立派な花が数多く飾られ、
その中のひとつに、公文式の創始者で当時会長であった
故公文公(くもんとおる)氏から贈られたものがありました。

余談ですが、当時存命だった母もアニーを観たいということで、
電話でチケットを予約しました。
電話には若い女性オペレターが出てくださり、
「○日と○日と○日、どの日でもいいですから、いい席がある日で」
とお願いすると、
母の元にはものすごくいい席がチケットが送られてきたそうで、
友だちと一緒に観に行って、とてもよかったと喜んでくれました。
不肖の息子が母にした数少ない親孝行の思い出です。


過去公文の優秀児であり、
かつ日の当たる道を歩み続けてきた志桜里さんが
大きなスキャンダルに見舞われたというのは、
とてもショックであり、また深く考えさせられることです。

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当時の公文は、存命だった公文会長の熱い思いの下、
社員も指導者(教室の先生のこと)も、
優秀児を育てることに懸命になっていました。

たしかに子どもというのは無限の可能性を持っています。
適切な指導をすれば、
その子が学校で習っている内容よりもはるか先に進むのは、
そんなに難しいことではありません。

最初に赴任したのは島根県松江市では、
たまたま自宅アパートのすぐ前が公文の古株の先生のお宅でした。
そこには五人の子どもさんがおられ、
そのうち下二人はまだ幼稚園児であるにも関わらず、
もう中学校相当の学習教材をしていて、
まだ赤ちゃんに毛の生えたような下の女の子も、
「宇宙皇子」なんていう難しい文庫本を読んでいるので驚きました。

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子どもの持つ可能性を伸ばし、花開かせるのは素晴らしいことです。
素晴らしいことではありますが、
その大きく花開いた可能性が、
大人になって本当に実を結ぶのか、
それが幸せにつながるのか、
それについては100%の自信を持ってイエスとも
またノーとも答えることができません。

『十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人』
この有名なことわざが示すように、
幼い頃に特別な才能を発揮しても、
大きくなってその輝きを失うことはよくあります。

またその才能を持ち続けたとしても、
それでその人が幸せなのかどうかは、
その本人にしか判断できないことです。

志桜里さんの場合はどうだったのか、
これまで社会的成功を収めてきたというのは、
客観的事実として間違いないことです。
けれどそれが彼女にとって幸せだったかどうかは分かりません。

今回の不倫報道、
また昨年の多額のガソリン経費問題を見るにつけ、
彼女にはエリート街道を歩んできた者の持つ驕りのようなものが
あったのではないかと感じられます。

もしそうだとしたら、
それは優秀であり続けたことのデメリットと言えるでしょう。


あくまで一般論として優秀児を考えた場合、
その優秀になり、才能を花開かせるために、
多くのものを犠牲にしてしまっていることがあるのではないかと感じます。

これも公文でのことですが、
極めて優秀な成績を取った幼中(二年保育の年小)ぐらいの女の子が、
「将来の夢は?」と問われ、
「医師」と即答し、その時の目つきや表情があまりにも冷めていたのが
強く印象に残っています。

幼い子どもが何になりたいと望んでも構いません。
けれどそれが子どもの本心からでものではなく、
周りの大人から与えられた価値観だとしたらどうでしょうか。

その大人たちから与えられた価値観を自分の本心だと勘違いし、
大きくなってその望みが叶った後、
本当の自分の気持ちに気がついたとしたら、
それはとても不幸なことです。

才能を伸ばすというのは、その子の持つ可能性を広げること、
それがそうではなく、
大人目線の狭い価値観に基づく理想に押し込められているのを
感じることがあります。


これは78年刊行の古い本ですが、
城山三郎の「素直な戦士たち」という娯楽小説があり、
その中で子どもに英才教育をする教育ママが、
「超一流の大学、会社に入れば、将来どんなこと、どんな職業も選択できる」
と子どもに語り、エリートコースへの道を歩ませます。

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けれど実際に子どもがいい学校に入ったら、
次はいい会社、いい結婚、そして出世をしていい家庭を築くと、
大人たちが描く理想像に子どもの人生を当てはめようとし、
決して芸術家や職人など、その子が望む道は歩ませようとはしないのです。

ここで語られている問題は今もまったく変っていません。
「価値観の多様化」などと言葉では言いますが、
子どもが優秀であればあるほど、
大人の抱く狭い堅実な道を歩まされ、
自分の意志を見つめることなく、また大きな挫折も経験することなく成長し、
大きくなって初めて自分を振り返らざる得なくなる、
こういうことがおうおうにしてあるのではないでしょうか。


大学受験は人生に於ける大きな関門ですが、
理系の優秀な生徒の多くは迷うことなく医学部を目指し、
文系の生徒も何を学びたいかではなくどこの大学に行きたいかとを優先し、
特定の大学の文系学部をすべて受験することが多くあります。

まだ社会経験の無い若い彼ら受験生に対し、
受験テクニックを詰め込むだけではなく、
将来の生き方、大学でどういったことを学べばいいのかということを、
受験指導をするほんの数パーセントの時間でも割き、
指導してあげて欲しいと思います。

能力、才能というのは、よりよく生きるための目的ではなく、
あくまでも手段であり方法です。


それともうひとつ思うのは、
優秀児の優秀さというのは、多くの場合学業に結びつくものであり、
それは主に知性であり、少しの理性です。
けれど人間の能力はこの二つだけではありません。
知性と理性、それに感性が加わって悟性という完成された形となり、
このバランスが大切だということです。

幼い頃はまずは動物としての原型を作る時期であり、
この時期に知的な教育を過剰に施し、
知性が先行してしまうと、
感性の発達がなおざりになる可能性があります。
また感性が年齢相当に育っていったとしても、
知性だけが突出するのはバランスが悪く危険です。

知性と感性、もしどちらかが先行するとしたならば、
それは感性である方が健全です。

世界を見回しても、
紛争や飢餓で生命の危機にさらされている地域は別ですが、
そうでない場合、貧しくても自然に根ざした暮らしをしている国の方が、
経済的に豊かな国よりも、
子どもたちの顔がイキイキとし、幸せそうに感じられます。

知性は、経済的豊かさを享受し、
文化的暮らしを営むための重要な手段であり、
理性は、社会的秩序を維持し、人間関係を良好に保つための知恵、
そして感性は、地球という自然環境の中で生きるために欠くべからざる素養、
また “幸せを感じる力” とも言えると感じます。


残念ながら、文明の発達は人間の持つ感性、
身体感覚を衰えさす方向に大きく働きます。
今の日本人の多くは、生まれた時から冷暖房完備の快適な環境で育ち、
最初の外部からの貴重な刺激てあるオムツの不快感も、
お母さんの手間をかけなくてすむ吸水性のいい紙オムツの登場によって
なくなってしまいました。

子どもというのは泥だらけになり、
両足で大地を踏みしめ、全身で自然と関わることによって
少しずつ身体感覚を身に付けていくものですが、
今はその機会が急速に減りつつあり、
それは身体機能の衰えに表れています。

『地に足をつけて生きる』、これが今の子どもにはできません。
土踏まずが未発達で、足の指を床につけられず、
長時間立っていることができず、不安定ですぐに転び、
また転んでもまともな受け身を取ることができず、すぐに骨折してしまいます。
子どもの足の裏の重心位置は、
指が地に着かないことによって年々後ろに下がってきています。

きちんと立つことができないので、
背骨を真っ直ぐに保つことができません。
ですから陰陽の理合いである腸と脳の関係が上手く働かず、
四感を司る頭部に入った情報、刺激を腸にまで落とし込むことができず、
短略的思考になり、すぐにキレたりするのです。

また最近は食べるものが軟らかくなり、
食べ物を噛む回数が確実に減ってきています。
これは顎の発達に大きな影響を与え、
今は顎が細くとがった子どもが多くなりました。

このことにより、狭い顎のスペースにすべての歯が入りきらず、
歯並びの乱れた子どもも多く見受けられるようになりました。

そして顎の未発達は頭蓋骨全体の発達にも影響し、
脳の成長を阻害する要因にもなっています。

つまり感性の衰えは、知性の衰えにもつながるのです。


理屈はさておいて、
自分はインドのたくさんの貧しい子どもたちと接し、
その生き様から多くのことを学び、
また幸せ、喜びを受け取っています。



彼らから学ぶもの、
それは人間は自然の一造物であるということ、
自然との共存というものを生活のベースとしていかなければ、
日々の暮らしの中で幸せを感じることはできないということです。



そしてそんな彼らの暮らしぶりは彼ら自身の身体に表れていて、
しっかりとした体作り、身体感覚を養うことが、
暮らし、教育の基本であるべきだということを、
彼らの逞しくもイキイキとした暮らしぶりから教えてもらいます。



身体教育(体育)であり感性教育、
これがよりよく生きるための基本としてあるべきです。
そして知育はその上に乗るものであり、
豊かな感性があるからこそ、
知識、情報、モノの豊かさといったものを、
自らの幸せとして活かすことができるようになるのです。

ホームに暮らす貧しいインドの子どもたちも一生懸命
日々勉学に励んでいます。
けれどその学習環境というのは極めて貧しく、
暗い外灯の下、ボロボロになった一冊のテキストを開き、
誰から教えられることもなく、一人黙々と学び続けています。



これは究極の『学ぶ姿勢』だと思います。
この姿に理屈抜きで生き様としての美しさを感じ、感動を覚えます。

日本でも昔は多くの学校に二宮金次郎の像が建てられていました。



薪を背負い、寸暇を惜しんで読書に勤しむその姿は、
やはり知育は、身体教育、感性教育の土台の上にあるという、
教育の原点を伝えてくれているように感じます。


山尾志桜里氏のスキャンダルからいろんなことを考えました。
彼女個人の詳しいことは分かりませんが、
彼女の姿から、一般論としてエリートの持つ危うさを感じます。

その危うさは、知性のみが偏重したところから生じているように感じます。
感性という土台なきガラスの塔は、
硬くてももろく、崩れ落ちる時は一気です。

その危うさは個人だけではなく、
今の日本の国全体にも当てはまることです。

食糧、環境、水、軍事的な安全保障、
どの面を見ても、今の平穏な日本の暮らしが
これからも長く維持できるという保障はまったくありません。
けれど今の日本人にその危機意識はあまりありません。

感性は生きる基本であり土台です。
ですから感性の衰えた民族が、
自らの土台を揺るがす危険に対する危機意識が
希薄になるのは当然のことです。


今は時代の大転換期で、すべてのものがリセットされる時、
無の状態から新しいものを生み出す時です。

無から有を創るのに必要なのは、知性ではなく感性です。
自然という生命の仕組みを感じ取り、
己の内から響いてくる声に耳を澄ましてください。

今の時代はすべてその方向に向かって動いています。
どうかそのことを、自らの感性で感じ取ってください。

2017.9.13 Wednesday  
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