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2013年4月6日 ・・・ 素直

今日は列島各地、春の嵐で大荒れの天気だったようですが、
ここ広島は少し雨が長く続いた程度であまりたいしたことはありませんでした。

先週早咲きのツツジが花を開かせていた広島市役所も、
ここ数日で一気にたくさんの花が開きだし、
雨粒を浴びキラキラと輝いていました。






どんな時でも自分に素直になり、
自然体で生きるのが最善であると考え、
これまで世間の常識にはあまり囚われることなく生きてきました。

その時々、身の回りの流れというものを感じ、
それに則って生きるのは楽であり喜びです。

そしてその中には不思議な導きと感じられるものが多々あり、
それをいかに感じられるかが、
真に自分が素直であるかどうかを見定めるひとつのバロメーターです。


ではそのような生き方をしていれば、
常に最高の選択をしながら人生を歩めるかというとそうではありません。
期せずして大きな試練を背負う道を進まされ、
深い苦しみを味わってしまったことが過去何度もありました。

けれどそれは悪いことではなく、その試練の道を進むことにより、
これまで気づけなかったことに気づくことができ、
今となっては大きな学びを得たという喜びを感じられることがほとんどです。

そもそも “最高の選択” という言葉自体に矛盾があります。
選択そのものに価値があるのではなく、
選択した後に、それをどう活かすかというところに価値が生じます。

選択こそが人生そのものだという考え方もありますが、
それは選択の積み重ねがひとつの結果や価値を生むのであり、
たったひとつの選択に善悪や価値を付けるのは難しいのです。

『人生万事塞翁が馬』
幼い頃の試練をバネに、その後の人生で大きな成功を収めた人がたくさんいます。
高額の宝くじに当選した場合、それに浮かれ、
事故や人間関係の大きなトラブルに見舞われ、また自ら身を持ち崩し、
数年後には当選時よりも貧しくなってしまう人が多くいるそうです。


その後の生き方により、
過去はいくらでも輝きを増し、肯定させることが可能です。
またそのように生きていくことが、生きる上での大きな指針です。

けれどいくら過去が肯定できるからといって、
それですべて最高によかったと思えるわけではありません。
外部から大きな試練という形で学びの場を与えてもらうより、
自ら進んで自己成長できる道を選んでいけたら
よりよかったのにと感じることも多いのです。


素直に生きるというのはとても大切なことですが、
素直であるならすべていいかというとそうではありません。

素直というのは自分のあるがままの姿ですが、
通常その中には、ずっと昔から培ってきた思いや行動の蓄積が含まれます。
宗教的な言い方をするならば、
それが業(ごう)でありカルマであり、因縁と呼ばれるものです。

素直な生き方というのは、
ある面その業に導かれる生き方となりがちです。

そこから学ぶことも多々あるものの、
真の自己改革とは、その強力な業の流れから脱却し、
新たな自己を、自らの力で創り上げるところにあるのではないか、
今、過去を振り返ってそう感じます。


素直とは、自分を抑えて人に合わせることではありません。
また自分の我(エゴ)を表に表すことでもありません。

素直とは、心のあるがままを感じ、
それに正直に生きることです。

その心のあり方は人によって様々です。
みな個性があるのですから、
人によって異なるっているのは当然です。
その異なっている部分を自ら認め、大切にしていく、
これが素直な生き方というものです。


問題は、その “素直な自分” と思えるものが、
心のどの部分にあるのかということです。

自分の内面の最も深い部分、
魂、霊、あるいは真我と呼ばれるところまでしっかり見つめられればいいのですが、
それはよほど悟りを開いた人でなければ困難です。

普通はもっと心の浅い部分にあるものを、
人は素直な自分として認識しています。
けれどそれは本当の意味での素直な自分ではなく、
これまで見聞きしてきた世間の常識や願望、
恐れ、不安、怒り、悲しみ、 ・・・ こういった様々な知識や感情が付随したものであり、
それらを取り去らねば、真の素直な自分と出会うことはできません。

また真の素直な自分の上に覆い被さっているこういった囚われや感情、
これもやはり別の面から見た業であると言えるでしょう。


ですから本当に素直な生き方をしようとするならば、
まずは自分の心をしっかりと見つめ、
その心のあり方に従って正直に生きること、
そしてその上で、それが真の自分の素直さではないということを認識し、
常に謙虚であり、軌道修正できる自分になることが必要です。


「私は自分に素直に生きている」と言って、
人の話に耳を傾けない方がおられますが、
それは真に素直なのではなく、
ただ単に傲慢不遜である可能性が大です。

たくさんの実りを讃えた丈夫な稲穂は、
大地にしっかりとした根を張り、頑丈な茎を持ち、
いつも頭を垂れた状態で風に合わせてゆらゆらと揺れ動くものの、
どんな強風にも耐える強い力を持っています。

自分をしっかり持ちながらも、
人を受け入れる度量と謙虚さをも併せ持つ、
これがより素直な自分を見つめていける生き方のスタンスです。

そしてそれあるからこそ、
常に自己改革し、よりよい道を歩んでいくことができるのです。


今は大変革の時代であり、
身近なことから世界情勢まで、
すべての局面が大きく揺れ動いています。

そんな時だからこそ自分をしっかりと持ち、
その上で周りからの刺激を謙虚に受け止められる自分になることが必要であり、
自分も常にそれを心がけています。


今日あったことです。
ある店にご飯を食べに行きました。

店には何人か従業員がいるのですが、
今日水を持ってメニューを聞きに来た人は最近入った年配の女性で、
心根が悪い人だとはまったく感じないものの、
あまり勘がよくなくて動きに無駄があり、
注文した料理を持ってくる際の手際も悪く、
自分としてはあまり感じよく思っていない人でした。

その人にメニューにあった天ざるを注文したところ、
その人はそれを伝票に記入し、
ワンテンポ遅れて注文を耳元で復唱されました。

その動作もなんとなく機敏さに欠けるもので、
それを心地よく感じなかった自分は、
耳に付けていたイヤフォンをとることもなく、
その復唱した言葉が聞き取れないにもかかわらず、
適当に頭を動かして返事をしました。

するとしばらくすると、
目の前には注文した天ざるではなく天丼が出てきました。

一瞬驚いて「天ざるを注文したんだけれど ・・・ 」
と口にしたところ、すぐにそれを下げようとされました。
けれど下げてしまって料理が無駄になってはもったいないです。
また天ざるでも天丼でもたいして差があるわけではありません。
どちらも大好物ですので、喜んでそれをいただくことにしました。

それを見ていた店主やその注文を聞きに来た女性は、
何度も自分に向かって頭を下げ、お詫びの言葉を述べられました。

けれどこれはどう考えても自分に100%の非があります。
その女性を好ましく思っていなかったので、
注文する言葉も明瞭でなかったかもしれません。
年配のその方は耳がよく聞こえないのかもしれません。
それで丁寧に注文を復唱したにもかかわらず、
自分の感情でそれを聞きもしない自分は、
かなり最低の男だと、深く反省するしかないのです。


素直で自然に生きるということと、
傲慢で感情的との差は紙一重です。

『人を志で見る』ということをいつも頭の中で考えていても、
実際に人に接する態度は、その時々の感情に大きく左右されます。

本当に情けないですね。
こんなみっともない自分が心の中にいるなんて、
けれどそれを発見できたことはとても大きな喜びであり宝です。
自己改革の大きな糧になるのですから。

シンプルなものほど深いのです。
素直に生きることは、囚われを山ほど抱えた現代人にはとても大きな課題です。

その山ほど抱えた囚われの存在をしっかりと感じ、
不完全な自分を愛しながら、
それを謙虚さと冷静さ、そして愛情を持って接していくことが大切です。


天どんは天ざるより100円高かったのですが、
レジでは天ざるの金額しか受け取ってもらえませんでした。
けれど今度その店に行った時には、その100円を返すことにします。
それが自分に対する最低限のけじめです。

そのちょっとどんくさいけれど、
一生懸命手際悪く動き回っているおばさんに感謝ですね。 ^^☆

2013.4.6 Thurseday  
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