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7月2日 断食


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どうですか、この朝焼けの美しさ、もう言葉では表現できません!!





インドで見る朝焼けが美しく感じられるのは、
異国だという思いがあるからでしょうか。
また未明から長時間お経を唱えた後なので、
より感情が高ぶっているのかもしれません。

けれどやはりそれだけではなく、
悠久の大地の上の、どこまでも限りなく広がっている空に映える朝焼けは、
お釈迦様の歩まれた天竺のみが持つ夢幻の力を感じます。

今朝も菩提樹の周りに孔雀がたくさん集まっていました。







石谷上人は、毎月月初めの二日間、12月は一週間を断食の日と決めておられ、
その間は食べ物と水を絶ち、
朝からずっとお経を唱え続けられます。

今月は1日にトラクターが土砂を運んできたので作業日に当て、
今日と明日、2日と3日が断食日です。

体調を崩しておられるリラ庵主さんを除き、
石谷上人と木村庵主さんお二人で、朝のお勤め、
その後は午前9時から夕方まで、
そしてさらに夕方のお勤めと、
ほとんど休むことなく一日中 南無妙法蓮華経を唱え続けられます。

普段の朝のお勤めでも、
一時間半の間お経を唱え続けるのは至難の業です。
太鼓の音に合わせ、南無妙法蓮華経を石谷上人と他の人たちが交互に唱え続けます。
その90分間声を張り上げ続けられるのは、よほど鍛えた人でしょう。

自分は呼吸法を二十年間以上続けていて、
声も大きいし息も人一倍長く続けることができますが、
石谷上人や木村庵主さんのように
堂内に響き渡る声を長時間続けて出すことはできません。
お二人の足下にすら及びません。

これは根本的に心身の鍛え方が違うからです。
性根を入れて物事に取り組むというのはこういうことなのだと、
お二人の生きる姿から教えていただきました。



朝の90分間だけでも大変なのに、
それを一日続けることなど自分には不可能です。
今朝のお勤めは太ももの日焼けで正座をすると痛みがあるので
椅子に座らせてもらいましたが、
その間何度も強烈な眠気が襲い、
二回も右手に持ったバチ(棒?)を下に落としてしまいました。

今日は朝夕だけのお勤めにし、
他は断食だけさせていただきました。

そしてそれ以外の時間は太鼓の音を聴きながら睡眠を取り、
ホームページの更新作業をし、
リラ庵主さんに頼まれた写真の加工作業をし、
それを印刷するために町まで出かけました。

もし日中もお経を唱えるのに加わっていたら、
さらに寝不足はひどくなり、
ホームページ更新作業も今以上に後追いするようになっていたでしょう。

夕方写真屋に出かけ待ち時間があったので、
お寺に戻ったのは夕方のお勤めが終わる直前でした。

お勤めが終わってキャンディーをいただく時、石谷上人から
「酒井さんは断食ができなかったのですね」と言われました。
石谷上人は自分にも一日お経を唱えて欲しかったようです。


今回のことで、いろんなことをとても深く考えさせられました。
これからそのことをしっかりと頭の中に置き、
己に問い続けたいと思います。

自分は仏教徒ではありません。
また日本山妙法寺の信者でもありません。

正直言って、
南無妙法蓮華経を唱えることにどのような意味があるのかまったく分かりません。
それを唱え続け、仏舎利塔を建設することがなぜ世界平和に繋がるのか、
それも理解することができません。

これは他の宗教儀式でも同様です。
それが己の心を安定させるというのなら分かりますが、
他の人や世界に影響を与えると言われたら、
それは信じる人だけがそう思う世界だと答えるでしょう。

けれどそれとはまったく別に、
己の持つ世界観を深く信じ、
利他的な思いで行動している人はとても尊いものだと感じます。

その尊い思いは、実際にどのような効果があるのかよりも貴重であり、
その思いと行動以上に尊いものはないでしょう。

矛盾した言い方ですが、
その思いと行動があれば、
きっといつかは世界を変えられるものだと信じます。


インドに深い縁を感じ、
孤児院に深い思いを持っていたことが結実し、
まったくの偶然からインドの孤児院オーナー家族と親しくなることができました。

自分が今インドで取っている行動が最も望ましい形かどうかは分かりませんが、
ここインドに来ているのは導かれた結果であり、
それに一点の疑問を感じずにすむことは何よりの幸せです。

そしてインドの孤児院で子どもたちと接することが必然であるならば、
そのご縁を導いてくださったのが傑出した宗教者である石谷上人であることも
また事実であり必然であるはずです。

これまでそのことをあまり深く考えたことはなかったのですが、
今こうしてインドにいて、
このことを抜きにして己のインドとの因縁を紐解くことは不可能だと
知ることができました。

これはとても大きな課題ですが、
課題であると同時に、大きな成長の糧であると信じます。


あくまでも今日のページの余談ではありますが、
サンカランコービルの町の写真を何枚か載せておきます。

写真屋さんの店先です。
こうして店の仕事内容をビシュアルで分かりやすく表現してくれると
すぐに分かって助かります。



店の入り口脇に巨大なバッテリーがありました。
インドはほぼ毎日パワーカットと呼ばれる停電があるので、
これはその時の予備電源でしょう。



昨日行ったネットカフェに可愛い女の子たちがいました。
レンズを向けると一人の女の子は急いで椅子の陰に隠れ、
もう一人の子はそれを見て笑っています♪



お寺への帰り道、少し道を間違えて学校の前に出てしまいました。
すると途端に男の子たちが寄ってきて、すぐに写真撮影会です♪



インドの牛たちが、ほとんど生えていない草を一生懸命食べています。



牛たちは起きている間、ほぼ一日中草を食んでいます。
この牛たちを見ていると、生きるとはどういうことなのかを考えさせられます。

生きるために食え、食うために生きるなと言いますが、
牛たちにとっては生きることと食べることはほぼ同義です。

人間の場合、生きることの中には様々な要素が含まれます。
食べること、働くこと、家族や友人と過ごすことに余暇を楽しむこと、
そして他人のために行動することや祈ることも ・・・ 。

人によって生き方に違いがあっていいと思いますが、
その根本を貫く大切なものとは何でしょう。
またそれを他人に求めることができるのでょうか。

自然はすべてのお手本です。
けれど牛にとっての自然と人間にとっての自然は、
立場の違いから見え方が大きく異なります。

『太った豚になるよりもやせたソクラテスになれ』
という言葉もありますね。
インドに来て少し太ったので、
やせたソクラテスが羨ましく見えるのかもしれません。

自分とってどんな生き方いいのだろう、
それを求め続けることも生きる上での大切な要素です。



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