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キリングフィールド

四年前カンボジアのプノンペンを訪れた際、
カンボジアの美しい文化と伝統を表す王宮と国立美術館、
過去の忌まわしい歴史の爪痕を示すトゥールスレン強制収容所と
処刑所であったキリングフィールドを見に行きました。

それらはいずれも深く印象に残る場所ではありましたが、
今回はそれらに再び行く予定はありませんでした。
けれどひろしまハウスにいると外の日本語の看板を見て
時折日本人旅行者が訪ねてくださり、
そのうちの一人の方と懇意になり、
話の流れで、その方と一緒にトゥールスレンとキリングフィールドを
再び見て回ることになりました。


広島とカンボジアは互いに負の歴史を背負っているということが共通しています。
広島は70年前に世界初となる原子爆弾が投下され、
市内一面が焼け野原になり、10万人以上の人が命を落としました。

カンボジアは40年ほど前、
クメール・ルージュというポルポトを中心とした原始共産主義を信奉した
狂信的集団によって、わずか四年の間に全国民800万人の四分の一から
三分の一にあたる人たちが殺されました。

殺された人たちは主に大人、知識人で、
教師や医師、僧侶、あるいはただ単にメガネをかけていたり
手が柔らかいというだけでインテリとみなされ、
クメール・ルージュの手によって殺されたとされ、
その狂気の沙汰は常軌を逸しています。

1979年、カンボジアの人々がポルポトの狂気から解放された時には、
多くの大人たちが殺さた結果、
国民の85%が14歳以下という異常な状態になっていたそうです。


広島の原爆は一瞬にして広範囲に甚大な被害を及ぼしましたが、
ポルポトの虐殺は四年間にわたり、
実に理不尽な、まさに殺戮と呼ぶにふさわしい行為が繰り広げられました。
しかも同胞の手によってです。

何度も繰り返し書いてきたことですが、
推察するに、このような過去を持つカンボジアの人々の心には、
大きな恨みや苦しみといった感情が内在して然るべきだと思うのですが、
常に穏やかなカンボジアの人々の表情からは、
そういった暗い過去の歴史を見て取ることはできません。

ただ知識層を根絶やしにされた状態でスタートした
新たなカンボジアの歴史に於いて、
しっかりとした教育を身に付け、
他国に負けない文化を築き上げていかなければならないという意識は、
とても強いように感じます。


今回もお世話になったソピアップさんという方は、
以前広島市立大学に留学していた経験があり、
今はカンボジアの大学で理系学問の教鞭を執っています。

彼はカンボジアの教科書編纂の役も担っているのですが、
彼の話によると、今のカンボジアの教科書の原型は、
JAICA、日本の国際協力機構の協力によって作られたもので、
今も不十分なその教科書の内容を改訂していくためには、
日本の教科書や指導書が是非とも参考として必要なのだそうです。

カンボジアの負の歴史からの脱却のため、
日本が力になれるとしたら嬉しいことです。
これから日本の教科書や指導書を、
何らかの方法で数多く手に入れたいと考えています。


四年ぶりに訪れたトゥールスレンとキリングフィールド、
その重苦しい空気が再び心に重くのしかかります。



この青空が広がり、緑の木々が生い茂る大地で、
なぜかくも残虐な行為が行われたのか、
このことは何度深く考えても理解することはできません。

収容所として使われたトゥールスレンは元は高校の校舎です。
そのひとつひとつの教室に罪のない人々が拘束され、
非道な拷問を受けました。

これは収容されていた人々の足かせとして使われていた拘束具です。
今回はほとんど写真を撮りませんでしたので、
四年前に撮ったものを載せておきます。



ポルポトの狂気の実態はどう考えても理解できませんが、
そういった思想があり、それが多くの人を導き、狂気に走らせたということは事実です。
そしてそういった非道な行為は自分を含め、
クメール・ルージュ以外の誰しもがその立場になれば為しうるものだと考えます。

またそう考え、自らの心の中にも潜む残虐性を理解しない限り、
大きな罪に対する真の反省にはならず、
再び同様の過ちを犯してしまうことにつながるのだと感じます。

たとえ話が飛躍しすぎるかもしれませんが、
カンボジアでは、鳥の雛がそのままの形で入ったスープがあります。
また孵化直前の胎児の入った鳥のゆで卵もご馳走として食べることがあります。

これらは日本人にはかなり受け入れがたい食習慣ですが、
カンボジアの人にしてみれば、
日本人が鯛の活け作りを食べることの方がよほど残酷に感じるようです。

残酷さとは、その時々の状況によって如何様にも変化するものです。
有名なスタンフォード監獄実験の結果からも分かるように、
人はその置かれた立場(実験では看守役)により、
実に簡単に他人(実験では囚人役の学生)に対して
残虐かつ異常な振る舞いをするようになるものです。

だからといってポルポトの残虐行為を肯定するつもりはありませんが、
彼らの犯した大きな罪は、誰しもが犯しうる可能性があるものであり、
その罪の十字架は、
一人の人間である自分自身も背負わなくてはならないと感じるのです。

それが人間に対する正しい見方であり、
真に罪から脱却する唯一の手段だと考えます。


トゥールスレンのような収容所は、
当時カンボジア各地にあったそうですが、
今はトゥールスレンのみが、当時の面影を残す資料館として残されています。

そして収容所に入れられた人々を処刑するためのキリングフィールドも
カンボジア全土に300もあり、
現在キリングフィールドとして多くの人が足を運ぶチュンエクという村の処刑場は、
その中のひとつです。



このチュンエク村のキリングフィールドの悲惨さは言葉で語り尽くせません。
広島の原爆資料館もかなり胸が締め付けられるものがありますが、
このキリングフィールドの悲惨さ、残虐さは、
その殺戮ひとつひとつに直接処刑する人間の行為が介在するという点に於いて、
広島のそれの数十倍強烈に胸を引き裂きます。

四年前に訪ねた時もキリングフィールドは衝撃が大きすぎ、
その衝撃で記憶がおぼろげになっているのですが、
当時はなかった日本語での解説が聞けるオーディオプレーヤーを
キリングフィールドの入り口で貸し出していただきました。

そこには園内各所で聴くべき解説がとても流ちょうな日本語で収められていて、
それを聴くことにより、
キリングフィールドで行われた殺戮の実態が実によく分かります。

あまりによく分かりすぎ、
風邪気味で少し痛みがあった頭はさらに痛みを増し、
耳でその解説を聞きながら、
思わずうめき声を上げてしまったところが何ヶ所もありました。

『罪のない人間を誤って殺すのは、罪のある人間を殺し損ねるよりましである』
これはクメール・ルージュで語られていた殺戮の基本原理です。


このチュンエクのキリングフィールドでは、
二万ともいわれる人々が殺害されましたが、
その殺戮の様子を近隣の村の人たちに感づかれないため、
処刑される人々はトラックで夜間に移送され、
その時は常に大きな音でカンボジアの民族音楽を流し、
処刑の音や悲鳴をかき消していたそうです。

その音楽もオーディオプレーヤーから流れていましたが、
その明るい音楽を、処刑される人たちはどの様な思いで聴いていたのでしょう。

音楽であれ、絵画であれ、自然であれ、
美しいとされるものはすべて、それを受け取る人間のその時々の状況、心境、
そういったものによって変化する心の中に芽生えるものです。
そんな当たり前のことを、緑豊かなキリングフィールドの中で感じました。


処刑の方法は様々あり、
とがった植物の葉っぱで喉元を掻き切ったり、
極度の飢餓状態にし、
その上で猛毒のDDTの入った食物を与えたこともあったそうです。

色とりどりのミサンガで飾られた木はキリングツリーと呼ばれ、
この木で命を奪われた乳児を含む多くの幼い子どもたちの魂を弔っています。



解説によると、まだ幼い子どもたちは両脚を兵士につかまれ、
母親の見ているその前で木に頭を打ち付けられ、死に至らしめられたのこと。
この世に地獄があるとするならば、まさにここがその地獄です。

可愛い我が子を目の前で殺され、
その後母親も殺害され、横の穴の中に埋められたそうです。

ポルポトから解放された後、この木を最初に発見した人は、
木に付着しているものが何か分からなかったそうですが、
その後、それが子どもたちの血痕、骨片、肉片、脳みその一部だということが
分かったとのことです。


同胞に対してこのような行為をなすことができる、
狂った思想とは誠に恐るべきものです。

人の思想や信条は自由に持つべきものだと考えますが、
その根底にあるべきものは、正しい目で見た自然観であり、
最も、そして唯一信頼すべきは命、これしかないと考えます。


あえて反発される方もいることを承知で書きますが、
最も尊ぶべきは命、これしかないと考えます。

命とは自らの肉体に内在する命であり、
また周りのすべての人たちが宿している命です。

命が最も尊いということは、己の外にあり、己自身をも創造したと考えられる神、
またその神の言葉よりも命をより尊ぶということです。

神や神の言葉、それら己の外のものを最上位と考えてしまうと、
それを守るため、人を殺めることもよしとする思想につながります。
ポルポトの原始共産主義、イスラム、キリスト原理主義、IS(イスラミックステート)・・・
これらは自らの思想のみを絶対善と捉え、
他の思想を持つ人々の命よりも自らの信ずる教えを守ろうとするものです。

過去多くの宗教が神の名の下に殺し合いを繰り広げてきました。
もうそういった血で血を洗う憎しみの連鎖はストップしなければなりません。


最も尊ぶべきものは命か神か、
これはどちらかが正しいということはありません。
西洋的一神教では、人間を創り出した神が最も尊ぶべき絶対的存在です。
それに対して東洋は、己の中に神の属性を見いだし、
自らを神の一部と捉え、だからこそ命が最も尊いものであると考えます。

東洋的な生命を尊ぶ考え方、
西洋的な神(その教え)をより絶対視する考え方、
これらは対極であり、二つ一つで陰と陽、どちらも必要不可欠なものです。

けれど今は人類誕生以来ともいえる大きな時代の転換期です。
人類は存亡の危機に瀕し、
これから先の時代は、これまでとは違ったまったく新たな価値観を生み出さなければ、
人類の行く末はないものと考えられます。

ですから今という時は新たなる誕生、スタートの時、
陰陽の理で説くならば、新たなる陰のスタート、
無から有を生む陰である女性性が求められる時なのです。

宇宙はビックバンという膨張によって誕生し、
今も膨張し続けていると考えられています。
つまり宇宙は膨張という陰によって誕生し、今も陰性が優位であり、
新たなスタートの時はまずは陰から始まり、
陰から陽、この順序が変わることは決してありません。


その陰性の理を持つのが東洋です。
東洋思想の元となっているものは、
古代インドのウパニシャッドという神秘主義にあるものと考えられます。

それによると、太古の時代、ブラフマンという神がいて天地を創造し、
そのブラフマン自身がバラバラに砕け森羅万象になったと考えられています。

つまり森羅万象の一部である人間もブラフマンの属性を持ち、
創造主ブラフマンの一部であると考えられ、
だからこそ自らの命は何より尊いものなのです。


東洋的な生命を至上とする考え方が絶対ではありません。
これも東洋的考え方ですが、
この世はすべて相対であり、絶対的なものなど存在しません。

ただ今という時、すべての価値観が大きく変わろうとし、
その価値観の違いが大きな諍いの種となろうとしているこの時は、
命を至上とする東洋的思想が求められ、
この命を最上位に置く思いなくしては、
今の混沌とした状況を収めることはできないと考えます。

ご理解いただけるかどうか分かりませんが、
これは思想ではなく法則です。
季節が時とともに移ろうが如く、
今は東洋の命を尊ぶ考え方が求められています。

季節の移ろいは自然の法則として多くの人が理解していますが、
歴史の流れを含めたより広い宇宙、時空の法則は、
まだほとんどの人に知られていない、
ただそれだけの違いです。

このようなことは以前「我が魂の遍歴と新しい時代の理」にも書きましたが、
とても大切な事なので、繰り返し述べさせていただきました。


カンボジアで起きたポルポトによる虐殺はとても大きな出来事ではありますが、
過去世界では、これに類することは数多く行われてきました。
また今も地域紛争の没発している地域では、
同様の残虐で理不尽な行為が起きているのではないかと考えられます。

広島の原爆慰霊碑には、
『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから』
と書かれています。

この言葉を具現化するためには、
その過ちの根本原理を探り、そこから新たな発想を生み出さなければなりません。
今は時代の大転換期、
だからこそ過去の己を見つめ直す禊ぎ(みそぎ)の時です。

これからの新たな時代を創り、
平和で持続可能な社会を創り出していくためには、
東洋の生命観を欠くことはできません。

一人一人がこの命からの発想を持ち、
命を何よりも尊ぶことが、
不幸な歴史を繰り返すことなく、
新たな素晴らしい時代を築き上げる唯一の道だと信じます。

2015.9.17 Thurseday  

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