ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
 ヨガナンダ > スピリチュアル夜話 > 偶像との関わり<2>



ヨガナンダ



2018年8月21日 ・・・ 偶像との関わり<2>

真理とは、天高くはるか彼方にあるもの。
手を伸ばしても容易に届かず、
まったくもってつかみどころのないものと言えるかもしれません。

またある人は、
自分の目から見て鼻の頭よりももっと近いところにあり、
そんな極めて身近すぎるから、
逆に気づくことができないのだとも言われます。

いずれにしても、真理とは本来言葉にできない抽象的なものであり、
それゆえに、それに至る方法として、
誰にでも分かりやすい
自体物、偶像(idol)というものを創り出してきたのだと思われます。


けれどいくらその偶像がよくできたものてあったとしても、
それは真理そのものではありません。
それは真理を感じ取るための足がかりになることもあれば、
真理を見ることの邪魔をするフィルターにもなり得ます。

偶像を表す英語のidolという言葉には、
誤った認識、謬見(びゅうけん)といった意味も含まれます。


人間の認識の発達という観点からすると、
いったんたくさんの社会的常識や知識を身に付けた後の段階では、
何かを理解し、感じ取るためには、
具体物(偶像)がどうしても必要というのはひとつの事実です。

真理とは本来形、文字として表わせないもの、
『不立文字』だと感じます。
けれどそのような形のない、アナログ的世界のものは、
多くの人たちにはもちろん、
たとえ目の前の一人の人にですら伝えていくことは困難です。

それをどうしても伝えていくためには、
形あるもの(偶像)、デジタル的なものが必要となってきます。

生命というこの時空で最も尊いものを見ても、
その情報の伝搬には、四つの塩基で構成された遺伝子DNA
というデジタル情報伝達物質が使われています。

0と1の信号のように不連続で定量化しやすいデジタルは、
情報を速く正確に幅広く伝えるのに適しています。

ただしデジタルだけで生命の本質すべてが伝わるわけではありません。
DNAには細胞をどのように発達させ制御させるかという情報はあっても、
その生命の器とも言える細胞そのものを造る能力はありません。

細胞というアナログの土台があり、
それを発達させるデジタル情報DNAがあり、
陰と陽、二つ一つで完全なる生命を形作ります。


前項は、仮想現実(バーチャルリアリティー)の世界だからこそ、
主体となる自分自身が大切だと締めくくりましたが、
その主体、自分というものこそが生命に於ける生命の器、
細胞というアナログ存在です。

偶像というデジタル的具体物は、
確立された自己、アナログ的生命をしっかりと持つた人にのみ、
本来の役目を果たします。

これは理想論とも言えるのですが、
もし自己の確立していない人が偶像を強く信奉したならば、
カルト的(狂信的)になり、
人間にとって最も大切な正常な判断力を失うことになりかねません。

そういった事例は、身近なところでも、また世界中至る所で見られるのは、
よく知られている通りです。


いつも持っている手帳には、
理想とする人物の写真を貼り付けているページがあります。
  (目の保養のため、可愛い子ちゃんばかりのページもあります♪)

そこに載せている十数名の人たちは、
いわば自分にとっての精神的偶像(アイドル)ともいえる存在で、
その人たちの写真を見て、その人たちの生き様、業績を感じ、
自らの生きる励みとしています。

その中には、インドの貧しい人たちのために生涯を捧げ、
ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサ、
テロリストの凶弾にも負けることなく女性の権利を訴え続け、
同じくノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんも含まれます。



彼女たちは本当に立派で尊い生き方を貫いていると思います。
そして自分も彼女たちの生き様に一歩でも近づきたいと願い、
二人の写真を日々眺めています。

けれど当然のことながら、自分は彼女たちに会ったことはありません。
その実像というものも、ネットやマスコミで報道されることしか知りません。

そしてその報道の中には、
必ずしも二人に対して肯定的なものばかりではなく、
マザー・テレサは拝金主義、差別主義者という裏の顔を持つ
およそ聖人とは呼べない存在だとするものや、
マララ・ユスフザイさんも反イスラム勢力から祭り上げられた
単なるグローバルアイコン、象徴に過ぎないという声もあります。

もしかしてそれは事実なのかもしれません。
けれどそれは自分にとってまったくなんの関係もない問題です。
自分は彼女たちの実像を信奉しているのではなく、
彼女たちが歩んだと思われる生き様を理想とし、
それを彼女たちとは切り離した状態で自分の中に受け入れ、
自らの生きる糧としています。

ですからその実像がどうであれ、
それで失望することも裏切られたと感じることもないのです。


偶像とは、自らを高め、
真理に近づくための大きな足がかりではあるものの、
主体をなくし、自らの価値観を依存させるものではありません。

いつか自分もすべての偶像を手放し、
無為自然、日々心の命ずるままに生きていくことを夢見ています。

2018.8.21 Monday  
ひとつ前へ  ホームへ メニューへ 次へ
Link Free
Copyright 2010 Sakai Nobuo All right reserved.