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2018年8月17日 ・・・ 偶像との関わり

数日前、二次元アイドルと結婚式を挙げるという男性のことが
ニュースになりました。
<「愛しているので」 2次元キャラと“本気の挙式” - ITmedia NEWS>

最近はLGBTといった性の多様性が社会に幅広く認められるようになり、
若い男性においても草食化という女性化傾向が強くなり、
直接的に生身の女性を愛することができなかったり、
アイドルに熱を上げたり、上記のような二次元アイドルに傾倒する
といった人たちが増えています。

そんな流れを考えると、
二次元キャラと実際に結婚式まで挙げたいという若者が現れても、
まったく不思議ではありません。

二次元キャラはある側面では完全に自分の理想を具現化しています。
そして絶対に自分を裏切ることはありません。



この傾向は今後ますます高まっていくでしょう。
その理由のひとつとして、これはとても大切な問題で、
いずれ項をあらためて詳しく書きたいと思うのですが、
生命を育むため最も大切な食の供給が
今後危ぶまれるようになるからです。

日本ではこの四月に種子法が廃止され、
今後日本の食糧自給が急速に低下する危険性があるだけではなく、
食のほとんどがカーギルやモンサントといった
アメリカの穀物メジャーに支配されるようになり、
そこから提供される(購入せざるえない)種子は、
遺伝子組み換え技術によって作り替えられた
子孫を残すことのできないF1雑種ばかりになってしまう可能性が
極めて高まっています。

その種から新たな種という生命を生み出すことのできない、
そんな作物を恒常的に口にすることが、
人間の生殖能力にどのような影響を与えるのか、
想像に難くありません。

そしてその結果として、生殖能力が低下し、
通常の恋愛に興味を示さない、
結婚しても子どもを作ることができないという若者が増えてくることでしょう。

これは食による世界支配と同時に、
有色人種の人口削減、民族滅亡に直結したことであり、
決して大げさな話ではありません。

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山田 正彦

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偶像(アイドル)というものは、
AKB48のような実在する三次元アイドルであっても、
実在しない二次元アイドルであっても、
そこで演じられているものは虚構であり、だからこそ偶像です。

アイドルを愛するファンは、
その虚構をイメージの中で実在と信じ込むことによって夢を見、
喜びを見いだすことによってビジネスを成り立たせています。

これはこれで需要と供給のバランスか取れ、
互いにその虚構劇が破綻しないのであれば、
その内部に於いて表面上大きな問題が生じることはありません。
(時に殺傷事件が起こることもあり、それは大きな問題です)


けれどこの偶像の存在は宗教に於いては大きく異なります。
よく知られているように、
イスラム教では偶像崇拝が固く禁じられています。

ヨルダンでは、偶像崇拝に通じるという理由で、
学校では図工の授業がないそうです。
またキャラクターそのものが偶像に値するので、、
サウジアラビアではポケモンもダメだとのこと、
また雪だるまですらイスラム的にはタブーという解釈です。

イスラム教だけではなく、
たぶんほとんどの宗教に於いて、
その当初は偶像を信仰の対象とはしていなかったものと思われます。

なぜならば、本当の真理とは『不立文字』、
文字や言葉では伝えられないものだからです。
ですからそれを形として伝えようとすると、
そこには必ず誤りが生じてしまいます。

けれど開祖が滅し、真理に到達していない者たちが
開祖の遺したものを伝えていこうとする過程で、
必要悪としてどうしても形あるもの、
教義や神殿、信仰の対象としての偶像が
必要となってきたのではないかと考えられます。

偶像崇拝を認め、仏像を拝む仏教に於いても、
開祖である釈迦は、墓や葬儀、仏像の必要性は一切説いていません。
これははるか遠いインドから教え伝わってきた過程で、
その通り道である国の文化や宗教と融合し、形を変えていった結果です。

日本の葬式仏教は日本独自の仏教文化であり、
それぞれの宗派の組織を存続させるため、
悪いように言えば金儲けのために生まれた風習です。


自分が考えの基とするのは東洋的生命観であり、
その東洋的思想では、絶対善、絶対悪は存在せず、
偶像に於いても、メリットとデメリット両面が存在するものと考えます。

人間は弱きものであり、誰しも聖人君子のようにはなれません。
そのため、心を律する手段として、
形ある宗教的行事や儀式、偶像が必要となってきます。

自立して走る自転車を乗りこなすまでは、
その前段階として補助輪が大きな役目を果たします。
偶像も、そういったものだと考えればいいのではないでしょうか。


家のポストには、時折宗教の勧誘チラシが入ります。
先日入っていたキリスト教系のチラシには、
偶像崇拝を強く否定することが書かれていました。

キリスト教にもたくさんの宗派があります。
そこはそういったことを重んじる宗派なのでしょう。

それを読んでみると大筋は理解できますが、
物事に絶対性、完全性を求めるキリスト教的考え方に、
自分としては違和感を覚えます。

これはキリスト教が創造主である神と人間を厳格に区分する
一神教であるのに対し、
自分は東洋的多神教、人間は神の創造物ではなく、
人間を含めた生きとし生けるものすべては神の一部であり、
神そのものであるという考え方を持ち、
その根本が異なるからでもあります。

そのチラシにはこう書かれていました。

『・・・これがその偶像を造り拝むということなのです。
そもそもそのような人間がこしらえたものが神であるはずがありません。
確かに彫刻されることによって、目や耳や口は ・・・ (中略) ・・・
それはただの作り物の像に過ぎないのです。
それらを拝むことは全くむなしいことです』

これはイスラム言論にある

『神は万物をつくった存在であるのに、神の被造物の1つにすぎない像を拝むなど、途方もない瀆神行為である』

という言葉と同じことを意味します。
一神教に於いては、こういった結論になるのは当然のことでしょう。
けれど自分はこれとは異なる考えを持っています。

人間は、その存在自体が神そのものであり、
それゆえに人間の想念は無限の力を有していると感じ、信じています。
ですから多くの人が偶像として崇めるものには、
その人たち、あるいは民族全体の想念の力が宿り、
その偶像を崇拝する人の前に『神の奇跡』と表現できるような、
そんな現象が現れても不思議ではありません。

自分は「母の愛」に記したように、
弘法大師空海が建立した東寺の大日如来像の前で
奇跡の体験をしました。

これは誰にでも、また世界中のどこででも起こりうることだと思います。
ただそれが自分の場合は大日如来像の前であったということ、
そしてその像は偉大な空海が建立したものであり、
多くの人たちが崇め続けてきたものであったがゆえに、
奇跡的な現象が発現しやすかったということなのだと感じています。

キリスト教でも、マリア像の目から涙がこぼれたり、
磔になったイエス像の釘を打たれた手のひらから血が流れたり、
そのような奇跡が起こったという話をよく目にします。

たぶんそれらは事実なのだと思います。
そしてそれによって多くの人の心が救われるなら、
その偶像の価値を認めればいいのではないでしょうか。


これは以前もこのホームページに書いたことがありますが、
敬愛する師ヨガナンダの自叙伝にある丸い石の神様の話が大好きです。
これはこの本の中にあるエピソードの中で、
最も深く心に残ったものと言ってもいいかもしれません。

あるヨギの自叙伝あるヨギの自叙伝
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ヨガナンダが悟りを開く直前、
師であるスリ・ユクテスワだけでは物足りなさを感じ、
ヒマラヤを目指し、その前に眠らぬ聖者と呼ばれる聖者を訪ねます。
その途中で丸い石を祭壇に祀る寺院に立ち寄ったものの、
たまたま機嫌が悪かったこともあり、
『神は魂の中にのみ求むべきだ』と心の中でつぶやき、
それに手を合わすことなくその寺院を後にしました。

その後聖者を訪ね道を歩いていくものの、
間違った道を教えられ、
いつまで経っても聖者のいる村に辿り着くことができません。

翌日の午後、ようやくの思いで聖者と巡り会うと、
その聖者はすべてお見通しで、
ヨガナンダに神はどこにいるかと尋ね、
それに対してヨガナンダが、
「どこにでも偏在しています」と答えると、
「ではなぜ前日、寺院の石のシンボルにひざまつかなかったのか」と問い、
その傲慢さを指摘し、
「それゆえに嘘の道を教えられたのだ」と諭しました。

神はすべてのものに偏在している、
それゆえに、ひとつの石にもまた神は宿っているのだということです。


大切なのは偶像崇拝がいいか悪いかではなく、
自らが信じる道に於いて偶像を必要とするかどうか、
それ見定めること、そして自ら信じるものがあっても、
他の人の持つ価値観も認め、それを阻害しないことだと考えます。

自分は偶像を崇拝することはほとんどありません。
それは大日如来像の前で、
母から最も尊いものは自分の胸の内にあるということを
教えてもらったからです。

それ以前はパワースポットを訪ねたり、
パワーグッズを探したりすることに興味を持っていましたが、
今それをすることは、
自分の命を懸けて愛の本質を説いてくれた母を裏切ることになるのです。

けれど偶像に力があることは感じ、
目の前に仏像があれば、当然のこととして手を合わせます。
また、ご飯を食べる時には目の前の料理に、
入浴時には手のひらを使って全身と指先に、
起床後はコップ一杯の水を両手で掲げ、
感謝の言葉を捧げています。

ヨガナンダと同様、
万物に宿る霊性を感じ取る日本人にとって、
食事の際の「いただきます」でさえも、
広く偶像崇拝と言えるかもしれません。


大昔、二十歳ぐらいの頃は、
松田聖子をはじめてする何人かのアイドルに興味を持っていました。
とは言っても、追っかけをするほどの熱意はありません。

その頃、まだ本当に初々しかった頃ですが、
数年来思いを寄せていた女性に告白したものの、
思っていたような返事が得られず、
食事も喉を通らないほどのショックを受けました。
  (その後その女性とは何度かデートしましたが・・・)

その時、当時歌番組として最も人気のあった「ザ・ベストテン」が
テレビから流れていて、アイドルの河合奈保子が中継で歌を歌っていました。
それはどこかのコンサートホールだったのでしょうか、
彼女の歌声とともに、彼女を追っかけている男の子たちの声援が
大きく聞こえてきて、
いつもならうっとおしく感じるその野太い声援に、
その時初めて共感のようなものを覚えました。

アイドルは偶像であり、身近な実像ではありません。
けれどレコードを買ったりコンサートに行ったり、
時間とお金、労力をかけて追い求めると、
必ずそれに見合ったいくらかの喜びが自分の元へと返ってきます。

傷心状態であったその時の自分には、
アイドルという救いの存在が切に感じられ、
そういったものを求める人の気持ちが初めて深く理解できました。


いつも言うように、モノそのものに価値はありません。
大切なのはそのモノといかに関わるかということ、
その関わりの中にこそ価値が生まれます。

偶像にも、本来それ自体に善悪はありません。
それをいかに自分の中に取り入れるか、それがすべてです。

今はスターという言葉があまり使われなくなりました。
それは社会の情報化が進み、
遠く手の届かないスターという存在がなくなり、
憧れの対象が、
より身近なアイドルへと移行してきたからだと考えられます。

そんな仮想現実(バーチャルリアリティー)化した社会だからこそ、
現実と見間違う幻想としてのアイドルとの関わり方が大切です。

そしてそのためには、アイドルの対極にあって
ペースとなる現実世界をどう生きるかということが求められます。

自分という確固たる現実があり、
初めてその周りの仮想現実、偶像が光輝きます。

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2018.8.17 Friday  
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