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2018年4月3日 ・・・ 宝探し

  <悟りへの道> のつづきです。

「本来の自分」を探すという、
生きる上で最も本質的で最もシンプルな“ゲーム”は、
あまりにも身近過ぎ、またつかみ所がなさ過ぎて、
現代人にとっては何をどうすればいいのか戸惑うばかりです。

何かを手に入れる、習得するということは、
明確な目標や手段があり、
努力しさえすればそこに至る道は見えてきます。

けれど今あるものを手放し、その奥に隠れているものを見つけるというのは、
たくさんのものを背負い、それを善とする社会に生きる人間にとって、
最も苦手とするものです。


「本来の自分」が隠れているのは最も身近なところ、
自分の内です。

人間は五つの身体感覚を持ち、
その中で、全身を覆う皮膚感覚を除く四感のうち
最も重きを置いているのが視覚です。

眼を自分の体の外側を見るように備わっていて、
最も近くにある自分の顔を直接見ることはできません。

これは身近なものほど分かりにくい、
また周りを見ることによって自分の姿を察するべきだという
教えなのかもしれません。

四感の中で内に向けた感覚を持つのは聴覚(骨導聴力)だけです。
これは、これまで眼を通して見てきたものを、
これからは耳を通して“観る”、
つまり『観音』ということが、
真理を知る上で大切なのだということを示していると感じています。

今はYouTubeに数多くのヒーリングミュージックがアップされています。
そういったものを利用することによって、
内なる気づきを得ることができる可能性があります。

けれど手放し、内なるものを見つめるのに、
何か新たな手法を求めるということ自体矛盾しているようにも感じます。

何事も道具は道具、あくまでも主体は自分である、
このことを忘れてはいけません。


「本来の自分」を見つめるというのは、
視界の利かない深い靄のかかった中、
手探りで内なる小宇宙に手を差し入れるようなもの。
その中で、なにか岩場に打ち込まれたハーケンのようなものを
掴みたいと考えるのが人間の心情ですが、
その何もない中に「本来の自分」という宝物を見つけ出すのが
このゲーム、人間ゲーム、宝探しゲームの神髄です。

唯一手がかりとなるのが、
過去の自分で、その「本来の自分」に最も近づいた時のことを思い出し、
その時の心の状態に近づくことです。

自分にとっては、先に書いた関空での至福感、
東寺の大日如来像の前で感じ取った母の深い愛、
あるいはインドのホームでの子どもたちとの楽しい一時、
また山登りが好きで、遠い山並みを見つめた時に感じた深い安心感、
そういったものを日々思い出し、
それを日常の感覚にできるよう心を見つめています。
  (見つめるは、観つめると書くべきでしょうか?)


本の中には、その感覚を手にするための『宝探しの道具』が
四つ書かれています。

「ザ・マネーゲーム」から脱出する法 「ザ・マネーゲーム」から脱出する法
ロバート・シャインフェルド 本田健

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  1. 感謝の表現
  2. プロセス
  3. ミニ・プロセス
  4. ボキャブラリーと独り言の教科
宝探しの道は遠いのか近いのか、
どこまで行ったらゴールに辿り着いたと言えるのか、
それは自ら体験しなければ分からないことです。

けれど人間として、
いつかはこの道を歩んでいかなければならないのは事実です。


形あるモノとしてのお宝、
日本では隠されたお宝として、
莫大な価値があると言われる徳川の埋蔵金が有名です。

そんなお宝を探す八重野充弘さんというトレジャーハンターがおられ、
よくお宝探しのテレビ番組などに出てこられます。
  <八重野充弘トップページ>



八重野さんは自分が公文に入社した時の同期で、
自分は新卒、八重野さんは学研からの途中入社ということで、
一ヶ月間大阪で一緒に研修を受けました。

その八重野さんがゴールデンタイムに埋蔵金発掘の番組を企画していると聞き、
それに出演する歴史家、金属探知の専門家、霊能者といった方たちの中に、
植物の超能力で地中を探る三上晃先生も加えられたらどうですかと提案し、
取材スタッフが三上先生のお宅に来られたことがあります。

レポーターとしてタレントのきたろうとカメラを担いだスタッフが来たそうですが、
なぜかその時のカメラのノイズリダクションの調子が悪く、
せっかく撮った映像がまったく使い物にならず、
その番組の三上先生の登場場面はカットということになりました。

番組では当然埋蔵金発掘には至らなかったのですが、
三上先生は、ピンポイントでそれが埋められた場所を発見しておられ、
実際に現地まで行き、振り子センサーを使って確認されたとのことです。

三上先生はお金にまったく欲のない先生で、
だからこそ埋蔵金の場所を見つけることができたのでしょう。
またそんな先生だからこそ、
テレビでそのことを話すべきではないということで、
テレビ撮影に障害が出たのではないかと感じます。


三上先生が言われるのに、
埋蔵金は穴を掘って埋めたのではなく、
傾斜地に置き、その上に土を被せたとのことです。
そしてそこには宝とともに葬られた人夫の人たち、
その他お宝を所有していた人たちなどたくさん人たちの思い、
念がこもっていて、
ただ単にお金欲しさにそこを探ってはいけないと常々語っておられました。

その上で三上先生は、
ご自身が戦争を経験されているので、
日本の戦後補償としてこの埋蔵金を使うのなら、
その場所を明かしてもいいと語られていました。

自分もつてを頼って知り合いの政治家に話を持っていきましたが、
なかなかこういう話は信じてもらえず、
結局そのことは実現することなく、三上先生は鬼籍に入られました。


このたび『心の中の宝探し』をしていて、
約二十年ほど前の三上先生のお宝探しのこと思い出しました。

お宝に思い、念がこもっているというのは、
埋蔵金も心の宝も同じだと思います。

なぜ心の中に宝物をしまったのか、
どんな思いでこの人間ゲームを始めようとしたのか、
そのことをまず理解して上げることが
このゲームの第一歩のような気がします。

「本来の自分」ではない「制限された自分」から見て、
この人生ゲームは楽しいことばかりではありません。
お釈迦様が一切皆苦と言われたように、
生きる上では辛いこと、苦しいことが山のようにあります。

けれどそれを恨んだり憎んだりしても何も始まりません。
(最初はそういったところを通り過ぎることも必要ですが・・・)

「本来の自分」は、なぜこういったことを自分に課したのか、
それを肉体に付いている眼で見るのではなく、
自分から少し離れたところ、あたかも体外離脱をしているような感覚で、
少し離れたところから自分を観て、
そこに何かを感じ取るところから新しい感覚が生まれてくる気がします。


これは証明のできない感覚的、思想的なものですが、
この偉大な生命システムを持つ宇宙、人間の心身は、
完璧な調和を持った世界から生まれ、
そして最終的に、また完璧な調和を持った世界へと還っていく、
そう理解しなければ、今現在、身の周りにある森羅万象を律する法則が、
整合性を持って理解することができないように感じます。

そして現存する宗教やスピリチュアルな教えとは、
このことを生命、「本来の自分」に
理解させるための道筋ではないのかと感じます。


「宝探し」とは、実に言い得て妙なものです。
最終的に手にするであろう「本来の自分」という宝物は、
とても価値ある光輝くもの、
そしてその宝物は、そう簡単に手に入っては面白くないので、
最も身近で最も探しにくいところに隠しています。

そしてこの宝探しには、
複雑で高価な道具も、難しい知識も学歴も何もいりません。
どんなに貧しい生活をしていても、身体が不自由でも、
誰でも自由に参加でき、
他人を蹴落とすことなく、逆に仲間と手を携え、
ともにゴールに向かって進んでいくことができます。

本当に、実によくできたゲームです。
やはりこれは愛そのものです。


愛(あい)、“あ”とは、発散させ広がる音、
“い”とはいのち、生命を表します。

愛とは生命を発散、輝かせること、
「本来の自分」は、生命を光輝かせ、
その喜びの上で“感じ(観じ)取って”いくものです。

2018.4.3 Tuesday  
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