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命という業

『この世は愛で満たされています』
多くの聖人がそう語り、私もまたそうであるものだと信じています。
けれどもそれを実際の生き方で示すことは困難であり、
また困難である以前に、そもそも不可能なのではないかとも感じます。

命とは何なのか、それは命をどのように捉えるかで変わってくるでしょう。
命、生命、いのち、・・・
霊や魂としての永遠の命もあれば、肉体としての有限の命もあります。

永遠の存在としての命は、愛そのものなのだろうと感じますが、
有限な肉体生命は矛盾と葛藤に満ちた存在であり、
それはどこまで突き詰めていったとしても解消されるものではありません。
肉体的な愛は、おぼろげに移ろう不確かなものです。

お釈迦様の説かれたこの世は一切皆苦であるという教えは、
この肉体という物質の持つ不合理性に由来するのだと考えます。
不合理であるがゆえに葛藤が生まれ、
葛藤することそのものに生きる意味や価値があるのだと思われます。


ネットで捨て猫に関する掲示物とそれに対する意見を目にし、
命について再び考える機会を持ちました。
  <すべての人に見て欲しい ... on Twitpic>



可愛い子猫のむごたらしい死に様を目の当たりにし、
心を痛め、憤りを感じるのは人間として当然の感情ですが、
カラスが生きるために行ったその行為とまったく同じことを、
私たち人間も肉体生命を維持するために
日々行っているということを忘れてはいけません。

命については、以前数ページに分けて書いたことがありますが、
命に対する疑問を上げるのであれば、
それこそ数限りなく綴っていくことができます。


子猫がカラスの餌になるのが可哀想であるならば、
家畜として飼われている牛、豚、鶏が殺されるのは、
まったく可哀想ではないのでしょうか?

またカラスは飢え死にしてもいいのでしょうか?

家畜やカンガルーが殺されるのは平気でも、
なぜイルカや鯨を殺すことに対しては非難されなくてはいけないのでしょうか?

知能が低い生き物が食される運命にあるのが当然ならば、
人間もまた、知能の低い者、知的障害のある者は、
それだけ生きる価値が少ないということでしょうか?

昨日、ネズミが困っている仲間を助けるという研究結果がニュースになりました。
  <ネズミは仲間見捨てない…米大学チーム確認   読売新聞>
これからさらに研究が進み、
多くの動物、そして植物の意志や感情の交流が明らかになった時、
私たちは今の倫理観のままでそれらを食することができるでしょうか?


先日知り合いのお坊さんから個人誌が届き、
そこには、「命は何より尊いものだから死刑制度に反対します」
ということが書かれていました。

私はこの考え方には納得がいきません。
それは、命を尊ぶ = 死刑制度反対 ではないと思うからです。

ワンネス、すべてのものはつながっている、
スピリチュアな世界で当たり前のように語られていることことは、
まさに命の本質を表しています。

命とはつながりの中にあり、つながりそのものが命です。
肉体、物質としての命は有限な一過性のものであっても、
それを育んでいる大きな生命系としてのこの時空は、
全体として大きな生命としての流れを変わることなく紡ぎ出しています。

死刑囚一人の刑が免れたとしても、
それでひとつの命が助かった、命がひとつ減らずにすんだ、
そんな単純な数字で語ることのできるものではありません。

すべてはつながりの中にあり、
その関わりの中から様々な結果が生まれてきます。

死刑制度は犯罪の抑止力があると言われていますが、
死刑制度を廃止することによって、
人の命が奪われるような凶悪犯罪が増えるかもしれません。

日本には生涯刑務所で罪を償うという終身刑はありません。
死刑の代わりに有期刑で刑務所に入った場合、
出所後に再び重大犯罪を犯す可能性がまったくないとは言い切れません。

一人の囚人を刑務所に長期間拘留するには莫大な経費が必要です。
長期刑になると、たぷんその金額は数千万円は下らないでしょう。
それだけの国費を他の社会福祉政策に使ったならば、
何らかの形で人の命を救うことは十分に可能です。
日本の年間自殺者3万人超のうち、
経済的理由で命を絶つ人が4分の1以上であると言われています。


それでもなお、たとえ人を殺めたような犯罪者であっても
理屈抜きでその命を守ろうとする姿勢は、
ひとつの倫理として尊いものだと思います。

けれどもその倫理とは、
決して絶対的なものではないというのもまた事実です。

この物質世界に生きている生命体は、
その宿命として他の生命を自らの体に取り入れなければ生きていくことができません。
そこには生態系という循環は存在しても、
その中のひとつひとつの生命を絶対的に尊ぶ倫理など
入り込む余地はありません。


人は人を殺してはいけないという倫理、
社会を維持していくための法律や制度、
すべては社会的動物である人間が自らの命、
そして種としての命を維持していくために定めた掟(おきて)のようなものであり、
それは時代や生活環境が変わればそれとともに変化する相対的なものです。

永遠の存在である命は何より尊いものではあっても、
それをこの物質世界で具現化した肉体としての命は、
尊いものであるとして扱えば扱うほど様々な矛盾が生じてきます。
そしてひとつの方向で絶対と捉えるところに争いが起こります。

永遠の命は絶対的なものですが、
肉体的命は絶対的なものではなく、
そこには絶対的な生命倫理は存在しないのです。


とてもシビアな問題ではありますが、
私はその矛盾を抱えた命を抱えて生きていくことそのものが、
「様々な経験を積み、いろんなことを感じ取りたい」と願う
永遠の命の持つ思いの表れではないかと感じています。

ですから生きていることそのものが業(ごう)のようなものであり、
肉体的命がすなわち業だと言ってもいいのではないかと思っています。


業が即悪いものではありません。
業があるからこそ、学び感じ取れるものもあります。
業は経験を積むためのフィールドであるとも言えるでしょう。

業を背負い、答なき答を求めてさまよい歩く、それが人生というものでしょう。

2011.12.8 Thurseday  
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