ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



道筋<8>

この時空は相対の世界であり、
真理は己の内にのみ存在し、
それは言葉や文字にすることのできない、
自らが感じ取ることによってのみ気付けるものです。

そこに至る過程において、
そこに一歩でも近づけるように言葉による教えや、
組織や儀式という形を作り、
それらに絶対性を持たせたものが宗教であると言えます。

宗教というのは両刃の剣です。
いい方向に働くこともあれば、悪い方向に働くこともあります。

もっともそれは宗教に限りません。
己の外側の形あるものの価値はすべて自分が決めるのですから、
形あるすべてのものは、
よくも悪くもどちらにもなり得る可能性を持っています。


善悪両面を持つ形あるものと上手く付き合うにはどうすればいいのでしょうか。
そのひとつの大きなポイントが、
そのものが悪い方向に行った時にはどうなるのかをよく見定め、
その上で、いい面を伸ばしていくことを考えることです。
悪い面を知らなければ、いい面を活かすことはできません。

その点、絶対性を重んじる宗教は融通をきかすことが苦手であり、
広い視野で自らを見つめることができません。
宗教の教えがうまく働いている時には人の心を救済する大きな力を持つものの、
それが時流に合わなくなってくると、
最後まで絶対性を捨てきれないがため、
壊滅的な結末を迎えることがあります。

今はその絶対性が悪い面として露呈してくる時期であり、
現在世界各地で起こっている紛争にも、
宗教勢力が大きく関わっています。
特に過激派、原理主義といった、
より絶対性を重んじる集団がテロ等で流血の事態を引き起こしているのを見ると、
人間の持つ愚かさを感じずにはおられません。

また今の時代の大転換期は、
西洋から東洋へ文明の主流がバトンタッチする時であり、
善悪二元論の価値観を持ち、絶対性の強い西洋の文明を、
上手くソフトランディングさすような形で衰退させていくのは、きわめて難問です。
けれどもこれは、私たちが望んで創造した人類意識を高める大きなピンチであり、
またチャンスでもあります。


宗教に優劣をつけるのは、まったく意味のないことです。
宗教というのは人を導くためのひとつの手段なのですから、
その人それぞれに合うもの合わないものがあるはずです。

実際にそれぞれの宗教は、
それが生まれた国や時代、気候風土が色濃く反映されており、
農耕民族には農耕民族のライフスタイルに合ったもの、
狩猟民族には狩猟民族に合ったものが教えとして形作られています。

ただみなそれぞれ自らの信じるものが絶対と考えるところから争いが生じてきます。

絶対というのは視野を狭めることにつながります。
けれどこれはいい面から考えると、
ひとつのものに焦点を絞るということでもあります。

競走馬の視野を狭める斜眼帯、
オートバイのフルフェースヘルメット、
ともに前方に意識を集中できるので、
より速く走ることができるようになります。

成功法則の基本は目標を持つことですが、
この目標を持つということも、
自らが決めたいいと思われる事柄に意識と行動の焦点を絞る作業です。

今のような混沌とした時代は、
絶対性を重んじる宗教は、デメリットが表に出る場合が多いのですが、
それでもやはりそれをどう活かすかは、
その人自身の内面の問題であり、関わり方が大きく影響してきます。


私はたまたま縁あって、
天理教という宗教から精神世界への道へと入り、
一時は天理教の布教師になりたいとまで思い詰めたことがあるのですが、
天理教が世界で最も優れた宗教であると考えたことは、
ただの一度もありません。

世界にはたぶん万を超える数の宗教があるでしょう。
私が直接、間接的に知っているのはそのごく一部です。
そのごく一部しか知らない人間が、
すべての宗教の中で何が最も優れているかなど語れるはずがありません。

また私は、いいものを人様にお伝えしたいという情熱は強く持ってはいても、
そのいいものを、理屈抜きにすべて信じ切るというのはまったく苦手です。
ほとんどすべての宗教は、
特定の神名を信じなければならないようになっていますが、
それを拝むことはできても、
それを唯一絶対だと信じ、また人にすすめることができないのです。

それでも二十歳過ぎの頃に宗教家を志したのは、
それだけ真理を知りたい、人助けの道を歩みたいという思いが、
強烈に胸に湧き上がっていたためです。
けれどももしあの時に宗教家になっていたら、
きっとその絶対性を受け入れられず、短期間で挫折していたでしょう。


世界中には様々な宗教があり、その教えの内容もまた様々です。
神名も違えば、一神教、多神教、神のあり方もまた違います。
人種が多岐にわたるように、宗教の教義もまたそれ以上に多岐にわたり、
それぞれがみな自らの教えが真理であると唱えています。

私には子供の頃からこのことが不思議でなりませんでした。
普通の人は、実際世界中には多彩な真理の教えが存在するのだから、
それが当たり前だですむのでしょうが、
私にはどうしても納得することができません。

私には、今この肉体が60兆個の細胞を有し、
厳密なサイクルで運行する宇宙の中で生命を平然と保っているということが、
不思議で不思議でならないのですが、
それと同程度の不思議さを、その多彩な宗教の「真理」にも感じるのです。

一般的に善人とされる方たちは、
「いろんな宗教が違った形の教えを説かれますが、
 みなそれぞれ学ぶべきところのある素晴らしい教えです」
というようなことをよく言われます。

これもとても不思議であやふやな言葉です。
すべての宗教の教えを比べてみれば、
お互いに明らかに矛盾する「真理」が多々見られます。
それから目をそらし、あるいはそういったものを内包した上で、
それらすべてに価値があると捉えるのは、
私にはとても納得できないのです。

真理が矛盾するはずがありません。
矛盾するのならば、それらすべて、あるいはほとんどのものは、
間違い、あるいは偽りだと考えるのが妥当ではないでしょうか。


そこで考え、導いた納得しうる結論はただひとつです。
宗教で真理と称されているものは真理ではなく、
それらは『方便』であるということです。

価値というものは、ものそのものにあるのではなく、
それをどう捉えるか、どのように関わるかというところに生じてきます。
それと同様に、宗教の教え、宗教で語られる真理というものも、
それ自体が正しい間違っているというところに価値があるのではなく、
それを信じる人たちが、そこから何を学び、感じ取るか、
そのためのどのようなキッカケとなりうるのかということに価値、
意味があるのです。

ある特定の宗教に絶対的な価値付けをすることはできませんが、
もし価値のようなものを付けるとしたならば、
それはその宗教の生まれた時代背景、
今置かれている周りの状況などとセットにして考えなければならないでしょう。

ちなみに「方便」とはこのような意味です。  方便 - Wikipedia より

1.仏教で、悟りへ近づく方法、あるいは悟りに近づかせる方法のことである。
2.仏教以外の物事について導く・説明するための手法のこと。
  真実でないが有益な説明等を意味する場合もある。
  「嘘も方便」という慣用句ではこちらの意味で使用されている。
3.上記の意味がさらに転じて、都合のよいさまを悪く言う場合にも用いられる
  (「御方便なものだ」)。
  あるいは、「詭弁」とほぼ同じ意味で用いられることもある。


宗教の語る真実がたとえ方便であったとしても、
やはり宗教の持つ力は絶大です。

私は天理教にはじまり、仏教、キリスト教、
命懸けで真理を探究する偉大な何人かの宗教家と方たちと
身近に接してきました。
そしてその間、人智を超えた奇跡のようなことも経験し、
またその宗教の唱える神名が、
実在の姿となって現われたという話も何度か聞きました。

私はそういったことに対し、今現在の解釈として、
すべての奇跡は、自らの想念が宗教というフィルターを通して顕現したものである、
と考えています。

すべては自らが創造したものであるという意味で実在であり、
外にある、外に現われたと感じるということに対しては
幻想に過ぎないであろうと感じています。


私たちの課題は、手段であるその宗教といかに関わり、
自らの心の救済を求めていくかということです。

私は今も立派な宗教家の方たちと接する時は、
その方たちが自ら信じる教えを通し、
どのような生き方を追い求めているのか、
見るのはその一点のみです。

その宗教の形が問題なのではなく、
それと対峙するその人の内面、
そしてその人の内面と宗教との関わりこそがが大切なのです。
  (これは、宗教を他の言葉に置き換えても通じるものです)


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2011.10.11 Tuesday  
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