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誰もが罪人

私が今最も熱中しているのは、
トイレ掃除と、そしてガム取りです。

トイレで便器を磨き上げるのはとても爽快ですが、
ガム取りは、また別の爽快感や喜びがあります。

ガム取りとは、路面に吐き捨てられたガムをきれいにはぎ取ることです。
なかなか完璧にきれいにすることはできず、イライラすることもあるのですが、
少しずつきれいになった道路の範囲が広がっていくと、
自分の心も広くきれいになったような気がして、幸せ気分を味わえます。

トイレ掃除とその思いはどこか違うのか、
しばらく頭をひねって考えたのですが、なかなか適当な言葉が浮かびません。
やっぱりこれは言葉で表現するものではなく、
実際に我が身で実践して感じ取るものですね。


ガム取りの方法や道具も少しずつ工夫を重ね、
今はこんな100円ショップで買った入れ物に道具を入れ、
少しずつ場所を変えながら作業を進めています。



私は基本的に暑い夏が好き、汗をかくことが大好きですので、
炎天下の作業はあまり苦ではありません。

昨日の日曜日は平和公園でガム取りをしたのですが、
直射日光にさらされたガムは粘性を取り戻し、
ヘラで簡単にはぎ取れるようになっていて、作業がとても楽でした。

通常はヘラでガムをはいだ後は、
その破片をチリトリで回収するのですが、
粘りのあるガムは、ボロボロと崩れてしまうことがなく、
ヘラで取った後は、指でつまんで簡単にゴミ袋に入れることができます。
暑い中がんばっているご褒美みたいなものですね。


ガム取りは一箇所で腰をかがめ、ガムを取り、
次は立って歩いて場所を移動し、また腰をかがめ、・・・
この繰り返しですので、足腰が丈夫でない方には、
ちょっと辛い作業かもしれません。

健康はありがたいな〜、いつもそう感じながら作業をしています。

私の地元広島の平和公園をきれいにする、
これを目標にガム取りを続けています。
昨日は原爆ドーム前の広場のガム取りをしました。



原爆ドームの前も、慰霊碑、原爆の子の像周辺も、
必ずガムは吐き捨てられています。
数は商店街ほどではないですが、皆無ではありません。

なぜ平和公園のような場所でガムを吐き捨てるのでしょう。
その心情というものが正直よく分かりません。


平和公園でガム取りをするようになって一年ちょっと経ちました。
一度きれいにしたところも、一年経つとまた新たなガムが見つかります。
それでも以前と比べると少し少なくなったかな ・・・ と感じられるので、
それを励みにしています。

最初やり始めた頃は、一箇所きれいにするたびに、
なんでこんなところでガムを吐き捨てるのだろうと、
強い憤りを感じていました。

ガムを吐き捨てるのは一瞬の行為です。
そしてそのガムを包み紙にくるんでゴミ箱に捨てるのに、
そんなに手間はかかりません。

けれどそのガムをしゃがみこんではぎ取り、
跡が残らないようにオレンジ洗剤と金属ブラシできれいにし、
最後雑巾で拭き取るには、その十倍以上の労力がかかります。
そしてもちろんそれでも完全にきれいにはなりません。

ガム取りをすると、
たぶん誰しもが最初は人間の愚かしさを感じることと思います。


それが少しずつガム取りの体験を積んでいくと、
心の中に変化が現われるようになってきます。

「人間ていうのはね、そんなもんだよな〜」、
こんな気持ちが芽生えてきて、
あきらめではなく、
ただそういうものだという現実的な人間の弱さのようなものを、
受け入れられるようになるのです。

ガムを吐き捨てないようにしてもらうには、
シンガポールのように、ガムの販売、そして所持すらも法律で禁止すればいいのです。
それ以外に方法はないでしょう。

人間の道徳心に期待する、
それもいいことだと思いますが、
期待には失望が付きものです。
そして失望には、おうおうにして怒りが伴うものなのです。
その点に注意しなければなりません。


それがさらに進んでいくと、
ガムを吐き捨てた人の「罪」というものは、
まったく同じ形で自分の内にも存在するということに気づくようになります。

世の中はステレオタイプのように割り切ることはできません。
ガムを吐き捨てると人は悪い人、
それを掃除する人はいい人、
こんな簡単な構図では絶対にないのです。

ガムを吐き捨てる行為そのものはよくありません。
けれどもガムを吐き捨てない人でも、
その人と同じような悪い行為を、
本人が気づいているかどうかは分かりませんが、
いつかどこかで行っているのではないでしょうか。

いやたぶん行っているでしょう。
人はどんなに真っ当に生きているつもりでも、
知らず知らずのうちに人を傷つけ、罪を犯しているものです。

私は聖書のこのパリサイ人の話が好きで、
このホームページでも何度か引用しています。

イエスはオリーブ山に行かれた。
そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」
彼女は言った。「だれもいません」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」


人は罪を犯すことなく生きていくことはできません。
ですから私たちにできることは、その罪を犯したという事実を知ること、
そしてそれを贖罪すべく努力をするということです。

私はトイレ掃除で便器を磨く時に、
自分の心を懸命に磨くような気持ちで手に力を入れているのですが、
ガム取りをさせてもらう時は、
自らの過去の罪業を感じ、それを償うような気持ちでしています。


人は誰もが罪人です。
罪を犯してしまったことは恥ではありません。
しかしその自らの罪に目をそむけ、
人の罪にばかり目をやり、それを責めるのは、人として恥ずべき行為です。

本当は言葉にできないものですが、
これが、私がガム取りから学んでいることのひとつです。

2011.7.11 Monday  
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