ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
 ヨガナンダ > スピリチュアル夜話 > 生かしていただく



ヨガナンダ



生かしていただく

『生かして頂いてありがとう御座います』
病身の私の知り合いは、
日々の生活の中で、この言葉を一日30回ぐらい唱えるそうです。

当たり前のことは当たり前すぎて、
普段はなかなか意識することができません。

生きている私たちは生きていることが、
健康な人は健康に恵まれていることが、
水や空気のように大切なことでありながら、
あまりにも身近すぎ、常にあることが当たり前のように感じられ、
その有り難さを見失ってしまいます。

このたびの震災で日本人の精神文明は一段階進歩してように感じます。
それは被災された多くの人たちに支援の手を差し伸べる
温かい思いやりの心に火が灯ったということ、
そして普段何げなく日々過ごせることが、
いかに有り難いことであるかという感謝の気持ちに気付けたためです。

有り難い、そう思えるから感謝することができます。
有り難いとは、有ることが難しいということ、
これは「当たり前」という言葉とは正反対の意味があります。

今日という日を生きている私たちは、
明日もまた99.9%以上の確率で無事に生きていくことができるでしょう。

今日健康で生きている人は、
明日突然に病気になったり事故に遭う確率は、1%にも満たないはずです。

確率的にいえば、健康に日々生きていられるということは、
当たり前すぎるほど当たり前なことなのですが、
健康に生きていられるということは、
どれだけ多くの条件によって支えられているのかを考えてみてください。

そしていったんそれを失ったなら、
どれだけ苦しい思いをし、
それを回復することはいかに困難なのかを考えてみれば、
健康で生きられることに対しては、
いかに感謝しても感謝しすぎることはないはずです。


病気や事故で死にそうな目にあったり、
身近な人の不幸を体験した人は、
命の大切さを深く感じることができます。

病気で苦しみ、日々健康を願っている人は、
健康の有り難さを人一倍感じることのできる人です。

その人の健康度合と、その人の健康に対する感謝の思いは、
一般的には反比例する関係にあります。
健康な人は、「健康は有り難い」と口では言っても、
なかなか心からそうは思えないものです。


私の自慢は健康であることです。
不規則な生活を続けていても、
病気ひとつしたことがなく、毎日体が思うように動いてくれて、
体力も人一倍あります。

そしてもうひとつの自慢は、
健康であるにも関わらず、
その健康であることに日々感謝することができるということです。

これは感謝行としての「体との対話」を実践していることが大きいでしょう。
それとともに、『生命体として命を保っている』ということに対して、
根源的な不思議さと神秘的な畏敬の念を常に感じているからかもしれません。


けれども最近そのことに疑問を感じるようになってきました。
私は健康であることに感謝をしていると口では言いながらも、
それはあくまでも観念の世界であり、
実際の暮らしの中での時間管理であったり食生活という面は、
あまり理想に近いという形ではありません。

知識としての健康のあり方は人一倍知ってはいても、
それをあまり実践できていないことに恥ずかしさと罪悪感を覚えます。

感謝とは観念と実践であるべきはずですから、
私の健康への感謝行は、明らかに実践が不足しています。
健康の有り難みを深く感じ、
『生かして頂いてありがとう御座います』
と心から唱えている人と接すると、
その言葉が深く心に響きます。


私は前世インド人であることを自覚しているのですが、
そのインド人であった人生において、
腰布一枚だけを身にまとい、
ガンジス川のほとりで一日過す遊行者のような暮らしをしていたのではないか
と考えています。
何ものにも拘束されることを嫌い、一日自由気ままに過すことを望み、
ただ時の流れに身を任せて生きていることに快感を覚える部分があります。

その生き方はそれである面はいいのですが、
昨年二度の生命の危機に遭遇し、
今の命は明らかに余分に与えていただいたものなのですから、
その与えていただいた命に感謝をし、
もっと今を生きる意味を考え、日々行動しないと、
自分の命に対して申し訳ないという思いを最近強く感じるようになりました。

「体との対話」をしていて感じるのは、
体の持てる機能を目いっぱい使った日は、
お風呂の中で体に手を当て、感謝の言葉をかけるのが心地いいということです。

ですから命に対しても同じでしょう。
与えていただいた命に対して、
その命の持つ力、可能性を十分に発揮するよう努力した方が、
命は喜び、感謝の思いに応えてくれるはずです。


そのためにまず考えなければならないこと。
それはなんのために生を受けたのか、
今という時を生きているのかということです。

それは別に大それたことではないかもしれません。
社会人として職場の中で自分の職務を全うすることかもしれません。
家庭の中での役割を果たすことかもしれません。

それを考え、それに向かって生きること、
それが命に対する感謝であり、己の使命であるはずです。


使命とは、命を使うこと。


『生かして頂いてありがとう御座います』と毎日唱えている人の言葉です。

朝、榊のお水を変え、うちの人と
『生かして頂いてありがとう御座います』
と言って朝御飯を頂きます。
榊は、信じられない位3ヶ月以上もってます。
元気です。
何時も、凄いねと言ってます。だんだん。

  (「だんだん」は出雲地方の方言で「ありがとう」の意味です)

2011.5.8 Sunday  
ひとつ前へ  ホームへ メニューへ 次へ
Link Free
Copyright 2010 Sakai Nobuo All right reserved.