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満月

愛は何でしょうか。
私は「母の愛」に書いたように、
愛とは変わらないものであり、エネルギーではなく状態であると感じています。

3月19日、その日が来ました。
けれども悲しみより先に、
心の中はまるでその時外を吹いていた春先の風のように
爽やかで透明な感情が湧き上がってきます。

母は最期に私にたくさんの愛情を与え、
そして自らの意思で死を選んでいったのだ、
そう思えることに、ほんの少しですが喜びすら感じ取ることができます。

私をこんな気持ちにさせてくれた、これが「母の愛」です。

愛とは、パワーやエネルギーではありません。
愛とは普遍的なもの、水や空気と同じくいつもそばにあり、
私たちの生命を慈しんでくれる、そういったもの、「状態」なのだと思います。

大河にはいつも大量の水が流れています。
けれども穏やかな大河は、見た目にはその流れをまったく感じさせません。
自ら川面に近づき、川の中に手を差し伸べ、指先に冷たい水の勢いを感じ、
初めてその流れを感じ取るのです。

まだ首の据わらない赤ん坊の頃から乳を与え手塩にかけて育ててくれて、
どんな反抗的な態度をとってもいつも許し、変わらぬ愛情を注ぎ、
そして最期の最期、命が燃え尽きる寸前まで、
私に「愛」というものを教えてくれた母。

愛とは一過性のものではなく、
どんなことがあっても変わらないもの、だから愛とは「状態」なのです。


あの日からもう16年が経ちましたが、
あの時、母が与えてくれた愛は今も胸に深く刻まれています。

愛とは状態であって変わらないもの、
この思いは、私にとってかけがいのない宝物であり、
この思いに間違いはありません。


これまでの人生を振り返ってみて、
深い喜びや愛を感じたことは、
やはりすべて変わらないものであったり状態であったり、
また他と比べることができないものであったように思います。

20年前、人生のバブルがはじけ、
すべてを捨てて土木の日雇い人夫の生活をはじめた時、
疲れ切った体で、ただお風呂に入り、食事ができることが最高の喜びでした。
そこには他と比べるといった感覚はまったくなく、
ただ無条件に肉体からわき上がってくるものです。

その当時は休みの日に山に登って自然と触れ合うのが何よりの楽しみでした。
山に入り、遠くまで続く山並みを眺めていると、
普段感じることがない心の深いところから喜びと安堵感がにじみ出てきます。

インドに行き、日本山妙法寺のお寺に泊めていただいた時には、
朝4時過ぎに起き、まだ暗いうちからお堂に座り、
ただひたすら団扇太鼓を叩いてお題目を唱えます。
そして6時頃になるとお堂を出て、その場所に立ち、
遠く地平線の彼方から昇りつつある朝日に向かって両手を合わせます。

私たちは豊かな大自然に包まれた自然の一造物なんだという、
そんな当たり前のことを、大きな感動とともに気づかせてくれます。

インドの孤児院では、
元気いっぱい輝くような笑顔をたたえた孤児たちが出迎えてくれます。
ほとんど私有物のない質素で規則正しい生活を送る子どもたちは、
いつも全身で生きる喜びを表現し、
私が写真を撮っても、一緒に遊んでも、ただ手をつないだだけでも、
とにかく何をしても大はしゃぎしてくれます。

私は何かをするから価値があるのではなく、
『ただそこにいることに価値がある』のだという、
生きる上で最も大切なことを子どもたちは教えてくれました。


愛、喜び、幸せ、価値、・・・そういったものには本来条件などなにもなく、
ただ目の前にあるものであり、
私たちはそれに気づくだけなのだと思います。

変わらぬ人の思いであったり、
普段は意識することのない日々移ろう自然の営みであったり、
そんなところに幸せの源はあるのだと思います。


昨日はその前の日に引き続き、
最近仲良しになった村田さんのお宅にお伺いし、
一緒に部屋の片付けをしたりして一日過しました。

ちょっと疲れが出てきた夕方5時頃、
村田さんが「赤い屋根」に行こうと提案されました。

赤い屋根は市内北部の小高い山の中腹にあり、
市内が一望できる広島で最高(!)の喫茶店であり、癒しの場所です。
  <赤い屋根>

村田さんはまだ赤い屋根に行ったことがないのですが、
トイレ掃除の仲間から過去何度も赤い屋根のことは聞いていたそうで、
最近も私がたびたび話をするので、
一度行ってみたいという気持ちが募っていたようです。

車を走らせ、6時前ぐらいに赤い屋根に着きました。
これから少しずつ日が落ちてくるトワイライトゾーンは、
赤い屋根から見える景色が最高に輝く時です。

木造の雰囲気ある内装、美しい季節の花、市内を一望できる景色、
上品なママさん、美味しいコーヒー、静かに流れる音楽、
赤い屋根はとにかくすべてが最高で、
初めて来た村田さんはそれらすべてに圧倒され、大感激しておられました。

赤い屋根では時間の流れが止まります。
ただ瞬くように移ろう町の様子を眺めていると、
自分が天上人にでもなったかのように普段の意識から脱却し、
時の流れが無限の一瞬のように感じられます。

ただ黙って窓の外を眺めていると、少しずつ日が落ち、
ポツポツと灯る町の明かりが鮮やかさを増し、その数も増えてきます。

広島 喫茶店 赤い屋根

そうしているうちに、東側の山影から燃えるような明かりが見えてきました。
ほんの少しずつ、その明かりが大きくなるにつれ丸みを帯び、
輝くようなお月様がその姿を現してきます。

今日18日は満月です。
完全に真円を保ったお月様はハッキリとその模様を見て取ることができます。

はじめは滲むようなだいだい色だったお月様は、
昇るにつれ少しずつ透明感のある黄色に近づき、
またほんの数分で再び赤みのある深い色へと変わっていきました。

なんという慈愛に満ちた輝きでしょうか。
霊感のない私にも、
今宵の月が特別なメッセージを送ってくれていることがハッキリと感じられます。

私たちは日々いろいろなことを体験し、
喜び、悲しみ、また笑ったり泣いたりして、
揺れ動く感情の中で生きていますが、
その私たちを支えてくれている月であり太陽であり、豊かな自然すべては、
いつも変わらぬ状態とリズムで、私たちの生命を支えてくれています。

私たちが心に深く置き、常に原点とすべきものは、
いつも変わらぬものであるべきです。

いつも変わらぬ自然も、そのリズムの中で、
時には私たちにその猛威をふるうことがありますが、
それも自然の大いなる慈しみのひとつなのだと思います。

石原都知事は、「このたびの震災は天罰である」と言いましたが、
それは一面正しいことかもしれません。
この時空には究極的には善悪という概念はありませんので、
罰という言い方は不適切かもしれませんが、
私たち人類が大きく進化するための過程で魁(さきがけ)となるべき日本人が、
その役割を一身に背負ったのかもしれません。

それはイエスが人々の罪を一身に背負い、
茨の冠をかぶり、
十字架を背負ってゴルゴダの丘を登ったのと
同じことではないかと私は考えています。


今宵天空に輝く月の光から、
今大きく羽ばたこうとしてもがき苦しんでいる人類に対して、
限りなく深い慈愛と、涙を感じ取りました。

私たちが心の一番奥深くに置くべきものは、
日々移ろいゆく周りの状況ではなく、
常に変わることなく天空に輝く月であり太陽のような普遍的なものであるべきです。

肉体はいつか滅びても、
光り輝く霊魂は永遠不滅の存在です。

迷った時は空を見て、身の回りの自然を見て、
そこから発せられる深い愛というものを感じてみてください。

私たちは今、そのことを感じ取ろうとしている過程なのかもしれません。

2011.4.18 Monday  
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