ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



楽しくシンプルに

日々急速に移ろいつつある時代の、深化していく方向は明確です。

私たちはこれまでたくさんのことを学び、身につけなければ幸せになれない、
立派な人間になれないと教え込まされてきましたが、
それは絶対的な真実ではありません。
幸せとは何かを手にしなければ得られないものではなく、
ただあることに気付けばいいだけのものであり、
これからそのことを多くの人が知るようになってくるでしょう。

時代はどんどんどんどんシンプルな方へと
加速度を付けて進んできています。


私の身の回りでは次々と不思議なシンクロニシティーが起こっていて、
これはたぶん多くの人が同様に感じることだと思います。
これだけ人間の持つ想念の力が増大し、
現実界に直接反映されるようになってきたのですから、
自分を見つめ、その変化を周りの現象で確認することほど
面白いことはありません。

面白いと表現するのは不謹慎かもしれませんが、
言葉を選ばず述べさせていただくならば、
私がスピリチュアルな世界で得る喜びというのは、
たぶんギャンブル好きの人が、パチンコや競馬、競輪をして得る喜びと
何ら変わりないものだと思います。

私が公衆トイレを掃除するのは、
それが地域社会のためになるから我慢してやっているのではなく、
それをすることが自分の心磨きになり、
自分を変えることができ、不思議なことが次々と起こり、
気持ちがスッキリとするからしているだけです。

ですから私は、
「トイレ掃除をすると、自分が得をするからしているんです」
と公言しています。

スピリチュアルな世界も、艱難辛苦を乗り越え、切磋琢磨し、
己を追い詰める中から真理を探究しようなどという思いはまったくありません。
ただそれが楽しく面白く、心に喜びを感じるからしているだけです。

私の持つ「信仰」は、
どんなに貧しくても、また知識がなくても、たとえ子どもであっても、
本当に素直な目で身の回りの自然を見つめていれば、
最も深い真理を感じ取ることができる、というものです。

ですからそれを探求するために、
人の真似のできないような苦労をすることも、
特別に偉い先生から秘伝を伝授してもらうことも、
高額なセミナーに参加することも必要ありません。
ただ怠惰な自分を愛し、日々喜びをもって生きていればいいのです。

私は幸いなことに、震災を機にその思いがより一層強くなりました。
思いは内へ内へと向かっていき、
外の情報を知るよりも、内面の世界の変化と、
それに伴って現われてくる身近な出会いという導きの方が
はるかに面白く興味があるのです。


けれども自分の内をただ見つめるというのは、
多くの人にとってまだ怖くて信じ切れない面があるのだと思います。
とにかくたくさんの情報を集め、
外の世界に救いを求めようとしている人たちが周りに数多く見受けられます。

それはそれでひとつの過程として価値があることだとは思いますが、
いつかはそこから離れなければならないということを、
頭の片隅にでも知っておいた方がいいでしょう。

内なる世界と外なる世界、
この対極な世界への二極化も、
シンプルな世界の表れかもしれません。


先日ある知り合いの書棚を見せてもらったところ、
そこには山のような感動の良書が並べられていました。
一冊一冊に込められた、
その本を書かれた人たちの血の滲むような経験と知恵は、
どれもおろそかにすることができない素晴らしいものばかりです。

けれど私たちの受け取ることのできる能力は限られています。
それらの偉大な人たちの知恵と経験を、
ただそれらの本に一度目を通しただけで得ることはできません。

また逆にいくらいいことが書かれていても、
それを読んで知ったつもりになることによって、
何か大切なものを失ってしまうこともあるかもしれません。

大切なのはたくさんのことを知ることではなく、
ほんのわずかなことでも、それを実践によって裏打ちし、
自らの血肉としていくことです。

深い真理ほどシンプルなのですから、
たくさんのことを知らなければ深い世界にたどり着けないというのは、
単なる幻想に過ぎません。


知識が豊富で、いつもある会で朗々と演説するように自説をスピーチする人が、
ある日、身近な人から、
「今日のスピーチは中身が薄かった」
と皮肉めいたコメントを言われました。

その一言がその人のプライドをえらく傷つけたのでしょう、
その次の会でスピーチをした時に、
「私は話の内容が薄いと言われて反省し、
 あれから毎日数時間、家で古典の書物を紐解いて猛勉強しています」
と話されました。

その人にとっては、本を読んで勉強することが、
話の中身を濃くし、説得力のあるものにすめると思っておられるようですが、
私はそれはまったく逆のことだと感じました。

知識はあればあるほどいいというものではなく、
その知識は、自らの肉体、経験を通し、
知恵として昇華させるところに価値が生じます。

時として大量の知識は、
内面の気づきとしてわき上がってくる知恵をスポイルしてしまうことがあります。

知識の量とは関係なく、要はいかに知恵を持つか、
シンプルな中にこそ、深い真理があるのです。


「シンプル<2>」で、天理教の布教師中川よしの話を書きました。

中川よしは明治2年生まれ、
信仰に目覚めた若かりし頃、
遠く丹波(兵庫県)の山奥から乳飲み子を背負い、
大和地方(奈良県)にある天理教の教会本部に歩いてお参りに出かけました。

本部では偉い先生が中川よしを前にして話をはじめます。
「遠いところよく来たなあ ・・・ 」
その労をねぎらい、まず語りはじめたのが、
「あのなあ、大切なのはなあ、朝起き、働き、正直やで ・・・ 」

中川よしはその言葉を聴くと頭を下げ、
「いいお話を聴かせていただきました。ありがとうございます」
と言って腰を上げ、その場を離れようとしました。

「おいおい、どうしたんですか。今話をはじめたばかりじゃないですか ・・・ 」

「いいえ、私にはそのお話だけで十分でございます。
 今から丹波に戻り、朝起き、働き、正直、その三つをしっかりと実行し、
 それができた後で、お話の続きを聴かせていただきます」


たくさんのことを知ることに価値があるのではなく、
ほんのわずかなことでも、
それを実践し、自らのものとすることに価値がある、
このメッセージの伝えることは、
これからますます価値あるものとなってくるでしょう。

自分の書棚を眺めてみて、
自分にとって最も大切な本は何かを見つめてみてください。
そしてその本に書かれていることが、
自分の生き様の中で活かされているか考えてみてください。

これから新しい良書を百冊読むことと、
これまで読んだ最も大切な本をさらに十回繰り返し読み、
そこに書かれていることを徹底的に我が身に染み込ませていくことと、
どちらに価値があるでしょうか。

実践、そして知恵に価値があります。
知識には価値がないとはいいませんが、
知識はそれ単独では、自らの知恵を阻害する可能性があるということ、
そして知識を得ることで、
シンプルな真理の気づきから遠ざかってしまう危険性があるということを
よく理解してください。

シンプルなこと、それはとても楽しいことです。
気持ちを幼い頃の自分に戻せば、
きっとそのことを思い出すでしょう。


この時空の真理は実に慈愛に満ちて素晴らしいものです。
もうそれに気付くための天の岩戸は開かれました。
私たちは、ただそこに目を向ければいいのです。

2011.4.19 Tuesday  
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