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言葉の限界

先日自分の書いた文章を読み返してみると、
「原点<2>」の中にこんなことを書いているのを見つけました。

人にはみな個性があるように、
その人の持つ天命は、人それぞれによって異なります。

当たり前のことですが、
その一人一人の天命は、どんな本を読んでも書かれてはいません。
自ら行動し、見つけ出していくしかないのです。

天命は人それぞれ異なるものですから、
それはけっしてステレオタイプなものではありません。
あるマルチの健康食品の説明会に参加したところ、
その講師がこんなことを話していました。

「人が幸せになるためには三つの条件があります。
 ひとつは経済的幸せ(お金)、二つ目は肉体的幸せ(健康)、
 そして三つ目は人間関係の幸せ(家庭)です」

この講師の方は、
人が幸せになるためには、
この三つの条件が備わっていることが絶対条件であると
信じ込んでおられるようです。

またこの三つが満たされてさえいれば、
誰もが幸せになれると思っておられるのでしょう。
これは生きる原点を深く見つめないように教育をされてきた
私たち日本人のひとつの典型的思考であるように感じます。


これは私が強く感じていることであり、
当然今でもその考えは変わっていません。

ところが、このホームページでもご紹介している
賢人塾の田端俊久氏の動画をネットで検索し、
その中のある講演を聞いてみたところ、
田端氏は生きる上で大切なこととして「福禄寿」ということを語っておられました。

福禄寿とは七福人のお一人で、
福とは血の繋がった実子に恵まれること、
禄は財産、寿は健康な長寿に恵まれることを表しています。

これは先の健康食品会社の講師の言われる三つの条件とほぼ同じなのですが、
なぜか田端氏の唱えられる福禄寿には納得できてしまうのです。

これはなぜでしょうか?
自分の中の矛盾、曖昧さと出合い、ハタと考え込んでしまいました。


そこで得た結論はひとつです。
言い訳のように聞こえるかもしれませんが、
言葉で表現できることには限界がある。
言葉では本当の真理を表現することはできないということです。

言葉というのは論理、ロゴスということと同じですが、
これは昨年8月、ある人との出会いがキッカケで
頭の中で真理を徹底的に追い求め、
いろんな思考が頭の中を駆け巡りった結果、
バブルがはじけるようにして得たインスピレーション、
『自分の追い求めていた言葉の上での真理とは、真理の絞りかすに過ぎない』
ということと一致します。

その時の思いを「トイレ掃除は心磨き」の中でこう書きました。

いったん回り始めた私の頭は止まることを忘れたかのように回り続けました。
まるで重りをつけた弾み車が慣性の法則でいつまでも回り続けるように、そして堰を切ったように、頭の中から次から次へとこれまで求め続けていた法則の解が引き出され、頭がパニックになりそうでした。

新たなるインスピレーションが生まれてくるのは喜ばしいことですが、このような混乱した状態は歓迎できるものではありません。
いつまでこんな状態が続くのだろうか・・・、数日間不安と混乱の中を過ごした後、8月5日深夜、いつものように近所のスパー銭湯でのんびりと足湯をしている時、突然頭の中にひとつの思いが浮かんできました。

『自分の身の回りのものはすべて自らの想念が作り出したもの、
  その想念の影のようなものである。
    今囚われている周りすべてのもの、現象は幻想(マーヤ)に過ぎない』

この言葉が浮かぶと同時に、体の中にスーッと染みこみ、あれだけ混乱していた心と頭が一瞬のうちに水を打ったように静まりかえりました。

『この宇宙はすべて自らの創造物であり、自らの心が作り出したものである』
こういった考え方はこれまで何度もいろんなところで見たり聞いたりして、自分でもそれを真理だとは感じていたのですが、このたびの大きな混乱を経て、一段深く体で理解することができました。
これは知るから分かるへの変化、いわゆる “腑に落ちる” という体験だと思います。

ここに至るまで、振り返ってみれば様々な準備があったように思います。
二年ほど前から日々実践している引き受け気功は、どんな不幸、災難も自らが引き受けることによって解決していくという100%自己責任に帰結させる手法です。
ほぼ同時期にはじめたハワイのヒーリング法であるホ・オポノポノも、すべての外部的問題を自らの心を通して解決へと導きます。

私は毎晩スパー銭湯で一時間以上入浴し、ヨガの基本行法や呼吸法、お祈りなどをしていますが、私の祈りはホ・オポノポノと同じく100%自分に対する祈りです。
インドの貧困、知人の病に祈りを捧げる時も、自らの心の中にあるそういった問題を生み出した原因に対して祈るのです。

また広島では8月6日の原爆記念日に向けて様々なイベントが開かれます。
そこでたくさんの素晴らしい音楽やメッセージと触れることができ、前日5日の日は、原爆の子の像の前でサダコの物語を朗読させてもらうという体験もしました。

こういった様々な体験が積み重なり、その時、『本当の実体と呼べるものは自らの胸の内にしかなく、他のものはすべてその実体が作り出したマーヤである』という気づきにたどり着いたのだと思います。

私の中の実体が、「本当の実体は胸の内にしかない」ということを気付かせたいがため、これまで様々な体験を積み重ね、その仕上げとしてその想念で彼女というマーヤを作り出し、混乱の中、ひとつの大きな気づきを得たのだと思います。

彼女だけではなく周りのすべてのもの、そしてあれだけ執着し求めていた生命観、宇宙観という “真理” もマーヤであり、言葉で表現できる真理などしょせん “真理の絞りかす” に過ぎないのだということに気が付きました。

私は天命としてこの “真理の絞りかす” をこれからも求めていきますが、真理は言葉で表現できないという不立文字(ふりゅうもんじ)という考えを、これまで以上に深く心に刻みたいと考えています。



言葉から伝わってくるものは文字としての情報だけではありません。
その場の状況、話している人の人柄、声の抑揚を含めた話し方、
あるいは服装等考え得るすべての条件によって、
その人の話す言葉からのメッセージが変化してきます。

人間関係、財産、健康、
その三つの条件、福禄寿が大切だと語るその人の奥に潜む生き方があって、
その言葉が記号を超えた深い意味を持ってきます。

言葉は大きな力を持っていますが、
言葉には限界があり、
その言葉だけで何かを追い求めると、
大きな間違いを犯す危険性を秘めています。

2010.12.19 Sunday  
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