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トイレ掃除は心磨き
    〜 我が心の軌跡と奇跡 〜  2009年8月12日作成

人は様々な人やものとの出会いを通し、いろいろなことを感じ、学び、成長していきます。
本当に幸せで恵まれている人とは、そういった素晴らしい出会いのご縁に恵まれている人のこと、そして頭のいい人とは、その出会いのご縁を自分自身の糧として生かす術を知っている人ではないかと考えています。

  小才は、縁に出合って縁に気づかず。
    中才は、縁に気づいて縁を生かさず。
      大才は、袖すり合った縁をも生かす。

私はとても縁に恵まれています。
これまで数え切れないぐらいの素晴らしい出会いをいただいてきました。
自分のどこにこんなにも多くの縁という恵みをいただける徳があるのか、ちょっと理解に苦しむところではあるのですが、これまで袖すり合ってきた人たちやものから今の私というものが形作られてきたことは間違いありません。
これは何よりもありがたいことで、このありがたいひとつひとつの出会いを生かすこと、 これが今も、そしてこれからも終生変ることのない大きな課題です。

ここ最近も大きな出会いがいくつもありました。
そしてそこから心に深く刻みこまれるような大きな学びと喜びを得ることができました。

私は「いいことを人様に伝え、広めたい」という思いが趣味を通り越した生き様、天命のようになっていて、その「いいこと」の一部をホームページにつらつらと書き綴ることを楽しみであり使命として取り組んでいます。
けれどもインターネットを通したホームページでは書くことのできないものがあります。
それは自分自身のプライベートなこと、また他人(肉親、知人)のプライバシーに関わるような内容です。

私は人様と比べるとかなりオープンな性格ですが、自分のプライバシーはともかくとして、他人のプライバシーにはなるべく配慮するよう心がけています。
それは過去に大きな失敗をし、身近な人を傷つけた経験があるからで、失敗は二度と繰り返したくない、そんな思いからです。

最近私が出会った(出合った)こと、そしてその中から感じ取ったもの、これは私の人生の中でも大きな糧となる素晴らしいものです。
けれどもこれにはプライバシーの問題が関わっていて、ネットを通して多くの人に語ることはできません。
しかし私のごく身近な人たちにだけはこの感じたものを伝えたい、分かってもらいたいと思い、この文章を書かせていただきます。



トレイ掃除が世の中を変える、トイレ掃除をすることで自分たちの心が磨かれていく、こういったことを耳にするようになったのは、もう十年以上前からだと思います。
広島では井辻栄輔さんを中心とした「広島掃除に学ぶ会」が作られ、私の周りの人たちもたくさん参加されていました。
私も何度も参加するようお誘いいただいたのですが、へそ曲がりな私はずっとその誘いを断り続けていました。

掃除は本来一人でするもの、まずは家の掃除片付けから、これ見よがしに団体で奉仕活動をするのはちょっと・・・、自分なりに様々な理由がありました。
そんな私が今は人一倍公衆トイレ掃除の会で張り切っているのですから、出合い、運命というものは分からないものです。


昨年、いつも参加している異業種交流会「積極人間の集い」に元広島市東区区長である山口富久さんが講師として来られました。
山口さんは有名人ですのでお名前だけは存じ上げていましたが、お顔を拝見するのはその時が初めてです。

講師の山口さんが語られたのは、トイレ掃除について、トイレ掃除がいかに地域社会を変え、子どもたちを変え、学校を変えるかというものです。
もちろんそれらを観念的なものとしてではなく、区長時代の実体験として語られるのですから説得力満点です。
「トイレ掃除とはこんなにもすごい力を持つものだったのか・・・」
初めて聞くトイレ掃除の具体的効果に強い衝撃を受けました。

「いいことを人様に伝え、広めたい」、このことを天命とする私が黙っているわけにはいきません。
なんとかもう一度ゆっくりと話をお伺いしたい、できるならばそのトイレ掃除の話の内容を私のホームページを通して多くの人に伝えたいと強く願いました。

そしてその思いを周りでトイレ掃除を実践している知り合いに話していたところ、今年になって掃除の生き神様のような小林常光さんから、4年前に行なわれた岩国での山口さんの講演録をいただきました。
内容はもちろん素晴らしいものでした。
講演時間が積極人間の集いの時よりも長かったため、内容が更に充実し、より具体的になっています。
これは是非多くの人に読んでもらいたい。
飛び上がらんばかりに喜んだ私は、常光さんを通してこの講演録を作られた岩国の方にすぐ連絡を取ってもらいました。
残念ながらワープロ打ちされた講演録の元データは今はもうないそうです。
ないものは作り直すしかありません。
スキャナーを使ってデータを読み取り、細かな読み取りエラーを注意しながらひとつずつ修正していきます。
スキャナーで文字データは読み取れても、写真はきれいに読み取ることができません。
写真だけはオリジナルで適当なものを入手する必要があります。

トイレ掃除の写真は、以前は井辻さんのホームページにたくさん出ていたのですが、今は削除されているようです。
どうしたものか・・・少し迷ったのですが、もう二十年近く会っていない井辻さんに一度連絡を取って、適当な写真を分けてもらおう、そう考えました。
そうしたら、本当にそう考えた矢先に、井辻さんとバッタリ市内某所で会ったのです。
(その後何度も再会しました)
私はいつも井辻さんのお顔をブログで拝見しているのですぐに分かりました。
けれど井辻さんは私のことがすぐには分からなかったようです。

頭に思い描いた人と偶然巡り会う、こういったシンクロニシティーは私だけでなく多くの人が経験していることだと思います。
けれどもこの時はまさにストライク、どんぴしゃり、何かの導きを感じました。

井辻さんから写真データをいただき、講演録を作られた岩国の方、山口さんにも知り合いを通して再度作り直した講演録の公開の許可をいただき、今その講演録は私のホームページにアップされています。
  http://yogananda.cc/toilet/yamaguchi/01.html
  http://yogananda.cc/toilet/yamaguchi/toilet.pdf (pdf版)

トイレ掃除の素晴らしさ、それをホームページで紹介しているのに自分は一度も実践したことがない・・・これはいくら私の面の皮が厚いからといっても耐えられません。
「まあ一度だけ、体験として・・・」そんな軽い気持ちでトイレ掃除の会に参加したのが今年の3月、それから私の人生は大きく変っていきました。


私が初めてトイレ掃除に参加したのは3月14日(土)のホワイトデー、東区の二葉中学校、山口さんの講演の中で県内で最も荒れていた学校がトイレ掃除を通して変っていったとお聞きした学校です。

以前は荒れていた学校も、今はその面影がまったくありません。
きれいに掃除の行き届いた校内、トイレもそんなに汚れてはいませんでした。

初めて学校のトイレ掃除に参加して、思いがけず深くいろんなことについて考えさせられました。
トイレ掃除は家ですれば十分だとずっと考えていたのですが、それは間違いでした。
自分の家のトイレと、他人がつけた汚れを掃除する公共の場のトイレ掃除とではまったく意味合いが異なります。
どの様に違うのか・・・それは言葉ではうまく表現できませんが、体験したことのある人なら体で分かるはずです。
白いホーローの便器は、磨く者にとって鏡のような存在です。
「トイレ掃除は心磨き」、これほどトイレ掃除の本質を言い表した言葉はないでしょう。

この日は午後もトイレ掃除の会がありました。
市内中心部の袋町公園の公衆トイレを掃除する「公衆トイレ掃除の会」です。
早咲きの桜が咲く公園で、芝生の上に腰を下ろして尿石で汚れきった水濾しをヘラやサンドメッシュを使って磨き上げました。
「便器の汚れを落としながら、自分の心の汚れも落ちていくようだ」、これはトイレ掃除を体験した人は皆一様に感じるところです。

「公衆トイレ掃除の会」は広島県警の先川孝コさんが提案し、昨年から実施されている会です。
先川さんは長年警察官として暴走族、非行少年、暴力団対策に取り組んできて、その更生の方法としてトイレ掃除に勝るものはないと実感され、また仕事で受けた自らの心の闇を洗い流すためトイレ掃除に真剣に取り組んでおられます。

「トイレ掃除にはいろんな人が参加します。
 けれどもその中でも元○○○、△△△の経営者、・・・など心に闇を抱えた人たちほど長続き
 し、はまっていく。それがトイレ掃除です」
先川さんは常々こう語っておられます。

私も最初はその言葉を人ごとのように聞いていたのですが、トイレ掃除に深く関わるようになり、しだいに自らも心の中に深い闇を抱えていることを再認識することになります。


私にとってトイレ掃除の歴史は食生活改善の歴史でもあります。
初めてトイレ掃除に参加した3月14日、ふたつの会の合間に家電量販店に行きジューサーを買いました。
尊敬する「愛と奇跡の人 小野春子」さんが提唱される生の野菜ジュースを中心とした三点セットという食事法を実践するためです。
  http://yogananda.cc/ono/index.html (愛と奇跡の人 小野春子)

私は小野さんのようにこの食事法を完璧に実践している訳ではありません。
「酒井さんは健康だから、とりあえずニンジンと青野菜のジュースからはじめられては・・・」
という言葉に甘え、その二点のジュースと果物を中心とした食生活に切り替え、今現在5ヶ月弱、体重は7キロ減り、体調はますますよくなり、体力も以前より増してきました。

トイレ掃除で心磨き、三点セットで体磨き、素晴らしいカップリングです。


江戸時代の観相家水野南北は、開運の極意ということで、食を慎むことを強く説いています。
どんなに人相がよく、吉相の人でも、暴飲暴食している人には決していよい運命は開けない。
逆に貧相で大難の相を持っている人でも、食を正せば運命は開けてくる。

これはやはり真理ではないかと感じます。
小野さんの三点セットをはじめてしばらくして、たまたま近所のスーパーの懸賞で一等5,000円が当たりました。
これまで宝くじや懸賞といったものにはまったく興味を持ったことがなく、当然当選といったことにも無縁だったのですが、これは何かひとつの象徴的な出来事のように感じ、とても嬉しく感じました。

その他細かいことではいろんなことがありましたが、あまり現象面に囚われるのはどうかと思います。
そういった “目先のラッキーなこと” に囚われると、本質を見失ってしまいます。
欲を捨ててこそ見えるもの、出合うものがあるのではないでしょうか。


先川さんとは十年近く前から細々とですがご縁がありました。
はじめての出会いはある会の懇親会です。
暴走族対策に取り組む先川さんの話を耳にして、それがあまりに素晴らしい内容だったので是非積極人間の集いのスピーカーになっていただきたいと初対面ながらお願いしました。
そして最近たまたま先川さんのご一家が小野春子さんと親しいということを聞き、不思議な結びつきを感じました。

先のトイレ掃除の会で先川さんと顔を会わせたのは数年ぶりです。
山口さんの講演録の中でも警察官として地域の正常化に尽力する先川さんの話が出てくるのですが、トイレ掃除に熱心に取り組むその姿にはオーラが漂っています。

はじめて感動のトイレ掃除を体験し、しばらくして先川さんから連絡がありました。
公衆トイレ掃除の運動を大きく広めたいので、ネットにこのことを載せて欲しいとの依頼でした。
トイレ掃除の中には深い真理があると直観で感じていた私は、もちろん二つ返事でお引き受けしました。
私のサイト内に「公衆トイレ掃除の会」のホームページを作り、写真やビデオを撮り、案内文章を作ったり、今の私はトイレ掃除にどっぷりとはまった状態です。

人生の歩みには大きな流れがあります。
私は19歳の時に天理教という宗教と出合い、その直後父親がガンになったのをキッカケに、生涯神の道に進むことを神前で誓いました。
その時できた “神因縁” がその後の私を導き、これまで十指に余る素晴らしいスピリチュアルな能力のある方々やグループと関わりを持ち、そのすべてで最も近いところで教えを受けたり、グループの中心として活動をするという稀有な体験を重ねてきました。

出合いこそ宝というならば、私ほど深い神の恵みを受けている人間はいないと思います。
けれどもそれを十分に生かしているかどうか・・・グータラ癖のある私にとって最も大きな罪を感じるところです。

若い頃、私が出会った人たちやグループは、宗教や超能力といった世界の人がほとんどでしたが、今はその流れが少しずつボランティア、社会奉仕といった方向に変りつつあります。
これはスピリチュアルな世界そのものの流れのような気がします。

トイレ掃除の人の心に与える力は、一般的な宗教に劣るものではありません。
腰をかがめ便器に向って素手でひたすら磨きをかけるその姿は、神道でご神体の鏡に向って手を合わせる姿と何ら変ることはありません。
きわめて尊い聖なる姿です。


トイレ掃除、三点セットをはじめてから、人との出会いの流れが変り、そこから大きな気づきを与えてもらうことが何度もありました。

先月ある女性と縁ができました。
たまたまちょっとしたトラブルがあり、そのことで私がその女性にお詫びの手紙を送ったところ、
数日後お電話をいただきました。
元々スピリチュアルな感性の高い方だとは感じていたのですが、話をしていくうちにクリスチャンとして深い信仰を持ち、それと同時に高い霊性と霊的能力を持った方だということが分かりました。

話の内容は驚くべきものだったですが、その内容とは別に私の心は魂の故郷にでも帰ったかのような深い安堵感を覚えました。
「またこういう方と出会った・・・」、私のこれまでの人生は、彼女のようなある種超人的な方たちとの出会いの連続でしたので、またひとつ次なるステージが開けてきたことをこれまでの流れから感じ取りました。

私は自分のホームページにこれまでの体験から培ってきた生命観、宇宙観、自然観を自分なりの言葉で綴っています。
内容はきわめて簡単で、子どもでも容易に理解可能なものだと思うのですが、『簡単なものほど分かりにくい』というのは現代人の性のようなもので、身近なところで私の考えを理解してくれる人はほとんどいません。
けれども彼女は私のそんな考えの根底を理解してくれる人だったので、心が躍りました。

私はあまり目標を設定して行動するということが好きなタイプではないのですが、最近より一層大きく飛躍する材料になればとの思いから具体的に求める目標、手段を紙に書きました。
その中に目標を達成するために必要な人脈というものを書く欄があり、自分が必要とするタイプを何人か書いたのですが、不思議なことにそれを書いた途端にそういった人たちとの出会いが連続しました。
彼女もまさにその中の一人でした。

彼女は高い霊性とともに、女性としても深い美しさを天から授かった人です。
はじめての理解者である彼女に私の考えを伝えたい、理解してもらいたい、そんな思いが胸にあふれ、手紙ともいえない分厚いレポートのようなものを何度か彼女に送りました。

この時空とは、生命とは、・・・はじめての理解者を得た私の頭の中はそんな “真理の探究” で四六時中フル回転しました。
私は性格分析エニアグラムではタイプ2、愛を与える人です。
自分のことよりも他人のことをさせていただくことに喜びを感じるタイプで、他人との関わりの中でモチベーションが大いに上がるのです。

私が求めている東洋的な生命観は、西洋的、科学的な思考とは対極をなすものです。
西洋的思考を深く探求するためには膨大な知識、研究施設、あるいは学歴、資金などが必要なのに対して、東洋的な知恵は、ほんの少しの基本的知識さえあれば、後は周りの自然や自らの生活体験を元にいくらでも思考を深めることができます。

いったん回り始めた私の頭は止まることを忘れたかのように回り続けました。
まるで重りをつけた弾み車が慣性の法則でいつまでも回り続けるように、そして堰を切ったように、頭の中から次から次へとこれまで求め続けていた法則の解が引き出され、頭がパニックになりそうでした。

新たなるインスピレーションが生まれてくるのは喜ばしいことですが、このような混乱した状態は歓迎できるものではありません。
いつまでこんな状態が続くのだろうか・・・、数日間不安と混乱の中を過ごした後、8月5日深夜、いつものように近所のスパー銭湯でのんびりと足湯をしている時、突然頭の中にひとつの思いが浮かんできました。

『自分の身の回りのものはすべて自らの想念が作り出したもの、
  その想念の影のようなものである。
    今囚われている周りすべてのもの、現象は幻想(マーヤ)に過ぎない』

この言葉が浮かぶと同時に、体の中にスーッと染みこみ、あれだけ混乱していた心と頭が一瞬にして水を打ったように静まりかえりました。

『この宇宙はすべて自らの創造物であり、自らの心が作り出したものである』
こういった考え方はこれまで何度もいろんなところで見たり聞いたりして、自分でもそれを真理だとは感じていたのですが、このたびの大きな混乱を経て、一段深く体で理解することができました。
これは知るから分かるへの変化、いわゆる “腑に落ちる” という体験だと思います。

ここに至るまで、振り返ってみれば様々な準備があったように思います。
二年ほど前から日々実践している引き受け気功は、どんな不幸、災難も自らが引き受けることによって解決していくという100%自己責任に帰結させる手法です。
ほぼ同時期にはじめたハワイのヒーリング法であるホ・オポノポノも、すべての外部的問題を自らの心を通して解決へと導きます。

私は毎晩スパー銭湯で一時間以上入浴し、ヨガの基本行法や呼吸法、お祈りなどをしていますが、私の祈りはホ・オポノポノと同じく100%自分に対する祈りです。
インドの貧困、知人の病に祈りを捧げる時も、自らの心の中にあるそういった問題を生み出した原因に対して祈るのです。

また広島では8月6日の原爆記念日に向けて様々なイベントが開かれます。
そこでたくさんの素晴らしい音楽やメッセージと触れることができ、前日5日の日は、原爆の子の像の前でサダコの物語を朗読させてもらうという体験もしました。

こういった様々な体験が積み重なり、その時、『本当の実体と呼べるものは自らの胸の内にしかなく、他のものはすべてその実体が作り出したマーヤである』という気づきにたどり着いたのだと思います。

私の中の実体が、「本当の実体は胸の内にしかない」ということを気付かせたいがため、これまで様々な体験を積み重ね、その仕上げとしてその想念で彼女というマーヤを作り出し、混乱の中、ひとつの大きな気づきを得たのだと思います。

彼女だけではなく周りのすべてのもの、そしてあれだけ執着し求めていた生命観、宇宙観という “真理” もマーヤであり、言葉で表現できる真理などしょせん “真理の絞りかす” に過ぎないのだということに気が付きました。

私は天命としてこの “真理の絞りかす” をこれからも求めていきますが、真理は言葉で表現できないという不立文字(ふりゅうもんじ)という考えを、これまで以上に深く心に刻みたいと考えています。


私たちが着目しなければならないのはマーヤではなく実体です。
そしてその実体に繋がっていくものです。

実体は自分の胸の内にしかありません。
それが光り輝く素晴らしいものであることは、母が亡くなった時に私に教えてくれました。
http://yogananda.cc/daily/in/haha_no_ai.html (母の愛)

実体に繋がっていくものとは・・・、正しいかどうかは分かりませんが、すぐに三つのことが頭に思い浮かびました。
ひとつは自然とのふれ合い、二つ目はトイレ掃除などの社会奉仕活動、そして三つ目が家族との関わりです。
これは絶対に正しいという自信はありませんし、また人によって異なるかもしれません。
もし異なるのなら、自分にとってそれが何であるのかを探し求めることに大きな価値があるでしょう。


実体とは生命の根源、植物でいえば根っこのようなものです。
根っこがしっかりと目に見えない土の中で広がり、その上に太い茎や幹があり、大きな葉っぱが日々太陽の恵みを受けているからこそ植物は命を保つことができます。

果実や実りはそれらに支えられて作り出されるもので、ある日突然天から降ってくるものではありません。

どのようにしたらしっかりとした根を張ることができるのか。
太い幹や葉っぱはどのようにしたら作り出すことができるのか。
そこに着目せず大きな果実や実りのみに心を寄せるのは本末転倒です。

果実や実りはマーヤであり、結果として作り出されるものであり、そこに心奪われるのは “迷い” に他なりません。 8月8日に行なわれた第一回宮島トイレ掃除の会には130名もの方たちにお集まりいただき、大成功のうち会を終えることができました。
その後も様々な方面から反響があり、展望浴場を提供してくださった錦水館の武内社長などは、自ら「宮島の公衆トイレをピッカピッカにする会」を立ち上げ、これから宮島の公衆トイレ掃除に取り組むと宣言されるほどです。

「宮島の公衆トイレは汚い」という新聞への一通の主婦の投書からはじまった今回の会でしたが、トイレ掃除の輪は確実に広がってきています。


「トイレ掃除は心磨き」、この心とはもちろん自分自身の心です。
公衆トイレや学校のトイレを掃除すると、町や学校、子どもたちが変っていきますが、それはあくまでも結果の世界です。

まだトイレ掃除をはじめて数ヶ月しか経験のない私ですが、そのことが少しずつですが確実に体で理解できるようになってきました。

先に先川さんの「心に闇を抱えた人ほどトイレ掃除が長続きし、はまっていく」という言葉をご紹介しましたが、心の闇とは誰しもが大なり小なり持っているものではないでしょうか。


私自身にも実は心に深くて大きな闇があります。
普段は完全に封印し、長い間ずっと目を向けないようにしてきたもので、日常それについて意識することはほとんどありません。
しかし確実に存在しています。

そしてその心の闇が、このたびトイレ掃除というものをキッカケとして表に現れてきました。

私には今年18歳になるAという娘がいます。
平成二年に結婚し、翌年彼女が生まれました。
結婚生活は当初からうまくいかず、まだ彼女が歩くことができない赤ちゃんの頃に別居、離婚しました。

短かった結婚生活は私にとって忘れ去りたい過去の記憶で、その後頭の中で抑圧し続けた結果、今はほとんど思い出すことができないほど記憶の中から消え去っています。
けれども可愛い一人の娘がいるというこの事実は変ることがありません。

私はこれまで彼女に対して父親らしいことを何一つしていません。
離婚してから彼女と会ったのは片手で数えられるぐらいです。
一番最近は7年ほど前、家に彼女が訪ねて来てくれて、手作りのハンバーグを作ってくれました。
まだ慣れない手つきで作った彼女のハンバーグは材料の配分が少しおかしかったようで、ほんのりしょっぱいハンバーグでしたが、私にとっては何よりの忘れられない味です。

これまで彼女に対して罪悪感を抱き続けていたものの、別れた妻の元で立派に育っているだろう、私が他の世界で活動しているのがきっと彼女にも伝わっているはずだ・・・、そんな勝手な論理で、心の中の彼女の影を消し去ろうとしてきました。
我が子Aの存在、それは私にとって最も深くて暗い心の闇です。


トイレ掃除をはじめたのは、元東区長山口富久さんのお話しを聴いたことがキッカケですが、その後山口さんとは長らくお会いすることはありませんでした。
先月行なわれた三次中学のトイレ掃除の会で念願叶い少しだけお目にかかり、名刺をお渡しして挨拶だけさせていただきました。
そして先日8日の宮島の公衆トイレ掃除の会にはご夫婦で参加してくださり、再びお会いすることができました。

8日の宮島の会が終了したその日の夜、知り合いの小さな居酒屋で懇親会がありました。
無事会を成功裏に終えることができ、みんな上機嫌で美味しいお酒を味わいました。
そしてその私の席の隣に山口さんが座られ、私ははじめてじっくりと山口さんとお話しをさせていただく機会を持ちました。

山口さんは東区長だった当時、多くの非行少年やその家族の人たちの心のケアをしておられましたが、なんと驚くべきことに、母子家庭で育った我が子Aも山口さんを慕い、学校帰りにたびたび区長応接室を訪ねていたというのです。
当時は小学生だった彼女のよき相談相手となってくださっていた山口さんは、当然ながら私以上に彼女の心情をよく理解してくださっています。

父親としてできることは何か、まずどうすべきか、山口さんはご自分の体験を交えながら丁寧に話してくださいました。
それはまるでトイレの便器にこびりついた汚れをどうやって落としたらいいかを語るようにです。

表面はきれいな便器でも、近づくとアンモニアの異臭がすることがあります。
そういった便器は必ず目の届かない周りの縁や水濾しに尿石がびっしりとこびりついています。
これは今の私の心そのものです。
表面ではいろんなところに顔を出し、いい顔を作り出してはいるものの、その奥には人様にさらけ出せない汚れをしっかりと抱えたままなのです。 私をトイレ掃除の道へ導いてくださった山口さんに、大きな会が終わったその日、心の汚れを落とすためのまさに『天の声』をいただく。
これを奇跡と呼ばずして何と表現すればいいのでしょうか。

トイレを掃除するとお金持ちになれる、ラッキーなことが次々と起こってくる、・・・
こんな功利的なことを書いた本がよく売れているようですが、私はこのような考え方が大嫌いで、人にこういった面からトイレ掃除について語ったことはありません。

けれども欲を捨ててトイレを磨いていくならば、
『トイレ掃除は奇跡を呼ぶ』
これは紛れもない事実だと感じます。


トイレ掃除の会で掃除を終え、集合場所に戻ってこられる参加者の人たちの顔はみな一様に晴れやかで、これに例外はありません。

けれども今の私の心は、まだとても晴れやかといえる状態ではありません。
それは心の汚れを見つけただけで、まだ汚れを落としていないから、またその汚れを完全に磨いていくだけの自信がないからです。

ここにこういった文章を書かせていただくのも、文字として今思っていることを自分のために残しておきたい、そしてこの汚れを落とさないまま、ふたをしてしまうことがないようにとの思いからです。


たくさんの縁と奇跡に恵まれて、私は本当に幸せ者だと思います。

実はもうひとつ奇跡がありました。
宮島の会があり、山口さんから話を聞かせていただいたのが8日、その前日7日の日に先川さんと二人で宮島に渡り、事前調査ということで宮島中心部すべての公衆トイレの場所と汚れ具合を見て回りました。
その帰り道、たまたま車が別れた妻の実家の前を通りかがったので、「この建物は・・・」ということで、私が過去のことを打ち明けました。

そうすると、なんと先川さんは元妻の実家のことをよくご存じで、我が子Aとも面識があると言われるのです。
先川さんのケイタイ電話には、私も知らないAのケイタイ番号が登録されていました。

これは守られていると表現するのが適切なのでしょう。
心の友である先川さんに我が子のことを知っていただいて、こんなに心強いことはありません。 私の周りにはたくさんの素晴らしい方がおられます。
敬虔なクリスチャンである小野さんは、わがままな不良中年である私をいつも深い愛で見つめてくださっています。
言葉数の少ない先川さんですが、先川さんの実践で愛を伝えるその姿から、自分の最も欠けているところ学ばせてもらっています。

私はすべてのものに恵まれています。
立派な体格、人一倍の健康、たくさんの人たちから学んできた知識、今現在私を支えてくださっているたくさんの心ある人たち、もうこれ以上何も望むものはありません。

これからは自分の根っことなるものを見つめながら、ホーローの便器をサンドメッシュで何百回も磨き上げるように、少しずつ心の汚れを落としていくだけです。


トイレ掃除は “人の心を磨く” ひとつの究極のものであり、
愛の実践、伝達方法としてこれほど優れたものはないのではないかと考えています。

けれども究極であったとしても唯一でも絶対でもありません。
私はたまたま縁あってトイレ掃除と出合い、そこから救いの道へと導かれました。

人それぞれ心を磨き、胸に幸せを抱けるようになる道は様々でしょう。
またそれを苦労しながら探していくのが人生の楽しみというものです。

私は “とも” という言葉が大好きです。
ともとは友達のともであり、また一緒に、共にのともでもあります。

友として共に人生を歩み、お互い心を磨き合える、こんな素晴らしいことはありません。
ピカピカに磨き上げた便器が、あたかも自分の姿を映し出す鏡のようになるがごとく、自分の周りはすべて自分自身を映し出す鏡の世界です。

2009/08/12


・・・ 追記 ・・・

その後先川さんの計らいで、我が娘と7年ぶりの再会を果たすことができました。
心磨きの道は一歩一歩です。

宮島公衆トイレ掃除の集い

  中国新聞 2009年8月9日(日)


・・・ 追記の追記 ・・・

その後もトイレ掃除と関わる中で、奇跡としか呼べないようなことが次々と起こり続けました。
それはこのレポートに書いた以上のことですが、身の回りの人との深い関わりの中で起こったことであり、残念ながら、言葉としてここに書き記すことはできません。

何度も同じことを書きますが、トイレ掃除が奇跡を導くということは間違いのない事実です。
私はそのことを体感として確信し、トイレ掃除に関わる多くの人が同じことを言われます。
トイレ掃除は下座行です。生きるために最も大切な食べ物が、最も汚いとされる糞尿となったその始末を、行として己の体を使ってさせていただく。このことが心の持ち方を変え、その結果として奇跡が起こるのだと考えられます。

お金、美味しい食事、素晴らしい人とのご縁、これらは植物に例えたら、美しく咲く花びらであり果実です。それに対してトイレ掃除は、土の中に隠れ、目には見えない根っこの部分に当たるでしょう。どちらも大切であり、そのふたつのものに貴賤の差はありません。

2010.9.14 Tuesday  
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