ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



救い

癒しという言葉が、今は時代を表すひとつのキーワードのようになっています。
私たちはこれだけ便利で快適で、
物質的に満たされた暮らしをしているにも関わらず、
癒されなければならない存在なのですね。
なぜなんでしょうか?

私は一昨年インドに行った時、
ホームの子どもたちから『生きる価値』というものを、
体で理解させてもらうことができました。
  <生きているから価値がある>

私たちはすべてにおいて十分に満たされているようで、
とても大切な何かがポッカリと穴が開いているように欠けているのですね。
そしてそれが何であるか、
そこに目を向けないように私たちは日々教育されているように感じます。


何かが欠けている、だから底知れない不安がある。
悩み苦しみ、葛藤がある、・・・
誰だってそう、私だってそう、みな同じように心の苦しみがあるのです。

その苦しみは、ゼンマイ仕掛けのおもちゃ自動車の動力のようなもの、
苦しみでもってゼンマイをしっかりと巻き、
その力でおもちゃ自動車は救いを求めて走っていきます。

大切なのは、そのおもちゃの自動車のハンドルをどこに向けるのかということ、
救いの道は人それぞれでしょう。


十数年前、私にとって最大の救いは自然との触れ合い、山登りでした。
平日は土木作業で汗を流し、土曜日、祭日も仕事、
貴重な休日である日曜日には、
朝から心躍らせるようにして山に出かけて行きました。

休日は必ずといっていいほどです。
朝方雨が降っていても、お昼頃に止めばそれから大急ぎで家を出たりしたものです。

山に行き、自然と触れ合うと無条件で心が安らぎます。
日々肉体的、精神的に辛い仕事をしていた当時の私にとって、
山は心安らげる唯一の場所でした。

今も山登りは好きですが、
忙しさにかまけてほとんど行く機会がありません。
今はもう山に行かなくても、心の平安が保てるようになったからだと思います。


山登りに代わって、今の私に心の安らぎ、救いを与えてくれているのが、
現在熱心に取り組んでいる公衆トイレの掃除ボランティアです。

「トイレ掃除は心磨き」と言いますが、
それは言葉だけではなく、
間違いのない真理であるということを体で深く実感できます。

それはこれまで半世紀に渡って様々な人生経験を積み、
数々の宗教体験、セミナーに参加し、
潜在意識関連の本だけでも数百冊は読んできて、
その中から頭でなにかのノウハウを知ることではなく、
自らの身を使って最も低い下座行をさせていただくことが、
心にとって最も価値あることだということを理屈抜きで感じ、確信できるからです。

下座行は、傲慢、カルト、選民意識、
そういった迷いを生じさす危険性のきわめて少ない実践行です。

誰が汚したのか分からない公衆トイレの便器を素手で磨かせてもらい、
また最近は、路面にこびりついている吐き捨てられたガムをきれいに取り除く
ガム取りにも熱を入れてやっているのですが、
これは街をきれいにするため、人様のためというのは仮の名目で、
本来はすべて自分のため、自分の心を磨くための行為です。

掃除をしている時は一心不乱です。
神社仏閣で仏像やご神体に手を合わせるが如く、
またその仏像を彫り師が一心に刀を持って彫り進めるのと同じ心境です。

公衆トイレの便器やガムのこびりついた路面は、
自分の心を映す鏡のようです。
ただそれに一心に向かい、己の心の汚れを落とし、磨くような思いで
手を動かし汗を流しています。

「助けてください・・・」、
恥ずかしながら私は、心でそうつぶやきながら便器磨きをさせてもらっています。

助けて欲しい、心でそう思わざる得ないようなことがあるからこそ、
ここまで熱心にトイレ掃除に取り組むことができます。


これまで周りの何人もの知り合いに、
「公衆トイレを一緒に掃除しませんか?」
と誘いの声をかけましたが、さすがに公衆トイレ掃除は敷居が高く、
二の足を踏まれる方もわずかながらおられます。

また一緒にしたとしても最初はいやいやといった感じなのですが、
掃除をしている間に少しずつ態度が変り、
掃除が終わった時には、みな例外なく晴れやかな笑顔を見せてくれます。

これは男女、子供大人は関係ありません。
誰にとっても、一度体験してみれば、
トイレ掃除が自分の心を磨いてくれるものなのだということを
体で理解できるようです。

けれどもそこから先、会に参加したり誰かと一緒という形ではなく、
「自分一人ででも近所の公衆トイレを・・・」
とそこまで行く人はほとんどいません。
それはそこまで求めないというか、求める必要がないからでしょう。

私の知る限り、自分で掃除セットを持って近所のトイレを磨いている人は、
例外なく、それまでの人生で大きな心の闇を抱えている人たちです。
みなそれぞれ驚くような人生ストーリーを持っています。
たぶん彼らも私と同様に、心の中で
「助けてください」あるいは「ごめんなさい」、「許してください」、
と叫んでいるのだと思います。


悩み苦しみがない状態に価値があるのではなく、
その状態に至る過程、
また実際に至れなくても、そこ至ろうとする過程に価値があるのです。

浄なる世界が素晴らしいのは、
その浄に至るまでの道のりに価値があり、
それかあるがゆえに浄は慈愛に満ちた輝きを放つのです。

お金があって、健康で、素敵な家族、仲間に囲まれて、
人生の素晴らしい果実に目を向ける前に、
その果実を実らせるためには、どのように根っこを張り、
幹を育て、枝を茂らせればいいかを考えてみてください。

そう考えれば、何が大切なのかは容易に理解できるでしょう。
果実は、その結果として必然的に手に入るものです。


悩み苦しみも生長のための糧、
自分というおもちゃ自動車のゼンマイを巻くためのパワー、
そう考えれば楽しいものではないですか♪

2010.8.2 Monday  
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