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2018年8月5日 ・・・ 自ら学ぶ

異業種交流会など外の会に参加をすると、
いつも大量のセミナーや講演会のチラシを受け取ります。
その中には興味をそそるテーマがないわけではありませんが、
自分はそのほとんどに参加することがありません。

セミナーの価値というものは、それ自体にあるのではなく、
それに参加する人がどのように感じ、捉えるか、
参加者自身の意識や価値観に依存します。

自分は知識は自らつかみ取っていきたいタイプであり、
椅子に座って先生の講義を聴くというのは好きではないのです。


何度も書いてきましたが、
自分は子どもの頃から学校ではまったく授業を聞かず、
家での宿題もほとんどすることがなく、
学校では典型的な問題児、劣等生でした。

今振り返ってみると、
興味のあるなしに関わらず一方的に何かを学ばされるということに
大きな反発心があったように感じます。
勉強という“勉め強いられる”ことが極めて苦手なタイプなのです。

その反面、自分が興味を持つことには
徹底的にのめりこむマニアックなタイプで、
学校で教わったことや受験勉強はほとんどしないにも関わらず、
大学受験情報誌である蛍雪時代はボロボロになるまで読み込んで、
各大学の入試科目や配点、難易度、出題傾向などを調べ尽くし、
あの頃は、ほとんどの大学キャンパスのシンボルである時計台の写真を見ると、
すぐにどの大学のものか答えることができるほどでした。

当時の受験に関する知識は、
高校の進路指導の先生のはるか上を行っていたと思います。

その頃(約40年前)、朝日や毎日新聞で「いま学校で」、「教育を追う」
といったタイトルのルポルタージュが連載されていて、
それを熱心に読み、当時新設された大学で、
およそ小学生程度の学力で入学でき、
理事長はラブホテル経営者というところがあることを知り衝撃を受けました。

その流れで大学時代は教育関係の本を読みあさり、
大学で学んでいた(本当はほとんど学んでいませんが・・・)物理とは
まったく関係のない公文という教育の会社に就職し、
その公文式のモットーである自学自習という教育方針が、
自分の中でしっかりと根付いたというわけです。


何か知識を身に付けるのに、
人から教えてもらったものと自ら学んだものとでは質が大いに異なります。

何かの分野で自ら学ぶ態度を身に付けたなら、
それは他のすべてのものに応用することができます。
学びとは、最終的な答えの中のみにあるのではなく、
その答えを導く過程にも存在し、
そこで試行錯誤し、工夫することによって得られるもの、
それが知恵と直結するものだと感じます。

他人から答えに至るまでの道筋をストレートに与えられるセミナーでは、
その知恵をつかみ取る喜びを奪われてしまいます。

今は本やネットで情報があふれていて、
芸術でも語学でもあらゆる趣味の分野でも、
どこかのセミナーや教室に行って学ばなければならないものというのは
ほぼ皆無です。

学ぶとは、まず最初にどんなものを使ってどんな方法で行うのか、
それを考えていくのが何よりの楽しみです。
その楽しみを奪われ、一方的に指導されるというのは、
自分には受け入れがたいものです。


今は毎週一回、金曜日の早朝行われている積極人間の集いという
異業種交流会に参加するのを楽しみにしています。
この会のよさは講師の話を一方的に聴くのではなく、
会の後半で参加者全員が感想等一言スピーチを述べることで、
その魅力もあり、もう三十年以上も長く続いています。

四年前、インドの貧しい村の学校に三ヶ月半駐在し、
10月になり、約四ヶ月ぶりにその会に参加した時、
会の雰囲気に強烈な違和感を覚えました。

インドの学校では、小学生(プライマリースクール)の子どもたちは
椅子も机もない教室で直接床に腰を下ろし、
一日中その姿勢で学習を続けます。
村の子どもたちは放牧されている山羊や羊の群れの中を
裸足で学校までやって来て、裸足で校庭を走り回り、
お昼のお弁当は手づかみでいただきます。
低学年の教室には学童年齢に至らない弟妹もついてきていて、
床の上で寝転がって居眠りをしています。

そんな自然と直結した暮らしの中にある学校で時を過ごしていた直後、
日本の都市部にあるホテル、空調の効いた部屋にある
整列された椅子と机、講師が用意したプリントを手元に置いて、
要点の整理された知識を50分間だまって聴き続けるということに、
身体が拒否反応を示しました。

「これは学ぶということの本質から外れている」
自らの身体がそんな訴えをしていることを強く感じました。

学ということは本来もっと泥臭いもの、
生きることと直接結びついたものだと感じます。
けれどそのことを文明の発達した今の日本で求めるのは困難です。
より効率化し洗練され、エッセンスを集約すると同時に、
その中にある何か大切なものをなくしてしまった
今の形で学ぶしか仕方ないのでしょう。

仕方はないですが、
学ぶということの本質はもっと別のところにあるということを
忘れてはいけません。

こう書いていて思い出しました。
これは以前にもこのホームページに書いたことがありますが、
ある志ある経営者の集いに参加した時のこと、
高級ホテルの立派な会場の前面にはその会の理念が張り出されていて、
その中には「自然との共生」という文言も掲げられていました。

会の最後は懇親会で、各丸テーブルとは別の会場脇のテーブルに
数々の素晴らしいご馳走が並べられましたが、
一人一人の挨拶が延々と続くため、
中座してその料理を取りに行くことができず、
懇親会終了時になっても料理は半分以上残ったままという状態でした。

理念、知識、言葉というものは、
行動や生き様という形を伴って初めてその価値が生まれます。

そんな当たり前のことを忘れさせてしまう自然と遊離した文明生活、
そこから今すぐ脱することができなくても、
そこに危機があるということを肝に銘じておく必要があります。


自分が求めているもの、
それは生命(いのち)とは何かということ、真理です。

この時空は極めて合理的でシンプルで、
かつ美しく愛に満ちた真理に満たされていると感じ、そして信じています。
これは自分にとっての確信であり、また信仰とも言えるかもしれません。

自分の生涯はそれを実証するためにあると考え、
『真理は世界中のだれでも感じ取ることができる』
という確信の元、極力お金を使わず、
また特異な場所やモノの力を借りることなく真理へのアプローチを続けています。

具体的にはいつも行く南インドのホームで暮らす子どもたち、
彼らにでも簡単に伝えられる真理、幸せになる道、
それを求めているのです。

ですからやはりセミナーというのは縁遠いものです。


先日、ある情報処理技術を指導する方の話を聞きました。
年齢は六十歳前後、以前はお堅いお仕事をされていましたが、
今は退職され、その技術の講師取得のためのセミナーを受けて講師になり、
そのお話をいろんなところでされているようです。

その方のお話はとても当を得たいい内容でしたが、
自分にとってはほとんど既知のものでした。

そこでとても気になる点がありました。
それはその人の話が、まったく自分の言葉になっていないということです。
つまりどこかの本で読んだ、あるいはその講師資格を取るためのセミナーで
聞かれたのであろうと感じさせられる雰囲気が、
言葉の端々に感じられるのです。
いわゆる知識を並べているだけと自分には感じられました。

これなら自分でその関連の本を読んだ方が
より内容が身に付くと思いましたが、
その方が別の会でセールストークをしたところ、
一日数万円のセミナーに参加したいという方が複数名おられたとのことで、
それにとても驚きました。


この冒頭でも書いたように、
セミナーの価値はそれを受け取る本人に依存します。
自分にとってセミナーというものはあまり価値を感じないものですが、
人によってはセミナー受講が大好きで、
そこで毎回大きな気づきを得られるという方もおられるのでしょう。

これは人それぞれの価値観であり、
そこに意見を挟むことはできませんが、
自分の目から見て、あまりにも周りのものに対して
受け身の姿勢の方が多いのではないかと感じられます。

これは学校教育も社会全体も、
覚えること、身に付けるべきことが多過ぎて、
最終的な答えを受け身でたくさん頭に詰め込むことを重視し、
その答えを導く過程、そこで得た知恵を磨くということ、
つまり自ら行う能動的思考が軽んじられている結果ではないかと感じます。


今は時代の大転換期、
過去の常識、前例ですべての物事を処理できた時代は終わりを告げ、
第一歩から物事を創り上げていく時代へと換わります。

今最も大切なのは、知識の量ではなく、
自ら学ぶ力、感じ取る力です。

自ら学び、自ら感じ、そして自ら動いていきましょう。



2018.8.5 Sunday  
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