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2018年8月6日 ・・・ 未来と子どもたちのために

8月6日、今年もまた広島で最も暑い夏の一日がやって来ました。
この日で人類最初の原子爆弾が広島に投下されてから73年、
そして今年はそれに加え、平成最悪の豪雨災害で
百名以上の広島県民が命を落としてからこの六日でちょうど一ヶ月で、
例年以上に熱い日差しが鎮魂の思いの深さを物語っています。

今年は前日5日から被爆者である今浦瑛子さんを長崎から迎え、
7日までの三日間、車椅子を押しながらともに鎮魂の行事に参加しています。
今浦さんのお住まいは長崎県ですが、
14歳の時に広島で被爆し、原爆で二人の弟さんを亡くされました。

今浦さんの被爆証言はこのページに紹介されています。
<原爆の絵|広島平和記念資料館 平和データベース>

<朝日新聞の紙面から - 広島・長崎の記憶~被爆者からのメッセージ>




:原爆で亡くなった人たちの御霊を祀る広島平和記念公園は、
前日5日から深い祈りに包まれます。

5日の夜は原爆ドームの前を流れる元安川に
鎮魂と慰霊のかがり灯が灯されます。



かがり灯が始まって今年で四回目、
8月6日の前夜5日に行われるようになって三回目で、
今年も大勢の人たちが揺らめくかがり灯の炎を見つめてくださいました。

特に近年は外国人観光客の姿が多く目立つようになりました。
そして一時多かった中国系の人たちに換わり、
アメリカ、ヨーロッパ系の人たちの姿が多くなったような気がします。

元安川を行き来する雁木タクシーの運転手さんによると、
二年前に当時のオバマ大統領が広島を訪れてから、
広島を訪ねる外国人の数が増えてきたようだと語っておられました。


6日は朝8時から平和祈念式典が始まります。
会場に被爆者席が設けられていて、
今浦さんとともにそこを向かいましたが、
ホテルを出るのが遅れ、式典会場に着いたのが開始30分前だったので、
残念ながら当日到着順のその席に座ることはできませんでした。

事前に市の職員の方に伺ったところ、
6日は式典の始まる一時間も前からかなりの数の被爆者が来られているとのこと、
原爆投下から73年、当然被爆者の方はそれを越す年齢ですから、
ご高齢で猛暑の中、長時間式典会場に居続けるのは激務だと思います。

平和公園の中には資料館と対になった国際会議場の建物があり、
その地下で式典の模様を映像を通して見られるので、
二人でそちらに行くことにしました。
結果として空調の効いたその部屋で参列できた方が、
体力的に楽でよかったように思います。

大きな会場の前面には巨大スクリーンがあり、
そこに複数のカメラによって撮られた式典の模様が映し出されます。
式典では広島市長による平和宣言をはじめとし、
内閣総理大臣、広島県知事、国連事務総長らがメッセージを読み上げました。

どれも心に深く刻まれる内容で、
地上の会場では各メッセージの後で拍手が起こっていたようですが、
地下でスクリーンを見つめる会場では、
特に拍手が鳴ることがありませんでした。

けれどその中で、こども代表である二人の小学六年生による
平和への誓いの言葉はとりわけ強く心に響き、
地下の会場でも自然と大きな拍手が湧き上がりました。



ここにその全文を掲載いたします。

人間は、美しいものをつくることができます。
人々を助け、笑顔にすることができます。
しかし、恐ろしいものをつくってしまうのも人間です。

昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。
原子爆弾の投下によって、街は焼け、たくさんの命が奪われました。
「助けて」と、泣き叫びながら倒れている子ども。
「うちの息子はどこ」と、捜し続けるお父さんやお母さん。
「骨をもいでください」と頼む人は、皮膚が垂れ下がり、腕の肉が無い姿でした。
広島は、赤と黒だけの世界になったのです。

73年が経ち、私たちに残されたのは、
血がべっとりついた少女のワンピース、焼けた壁に記された伝言。
そして今もなお、遺骨の無いお墓の前で静かに手を合わせる人。
広島に残る遺品に思いを寄せ、今でも苦しみ続ける人々の話に耳を傾け、
今、私たちは、強く平和を願います。

平和とは、自然に笑顔になれること。
平和とは、人も自分も幸せであること。
平和とは、夢や希望をもてる未来があること。

苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々。
その平和への思いをつないでいく私たち。
平和をつくることは、難しいことではありません。
私たちは無力ではないのです。
平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々へ届けます。
73年前の事実を、被爆者の思いを、
私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。

平成30年(2018年)8月6日
こども代表
広島市立牛田小学校6年 新開美織(みおり)
広島市立五日市東小学校6年 米広優陽(ゆうひ)



この二人の子どもたちによる平和への誓いを聴かせてもらい、
ひとつの思いがハッキリと胸に浮かび上がってきました。

平和は今だけの問題ではなく、
未来に向けて創り出していかなければならない
今の大人達の課題であるということ、
そしてその結果を背負うのは今の子どもたちであり、
平和とは、未来、そして子どもたちのために
築き上げていくべきだということが。

子どもたちの純粋無垢な声の響きと原爆の悲惨さはまったくの対極であり、
その子どもたちの純粋さゆえ、
原爆のあまりにも愚かでむごたらしい姿が鮮明に浮かび上がってきます。


余談ではありますが、
国際会議場で地下に下りるためのエレベーターを待っていると、
開いた扉から女優ののん(本名 能年玲奈)が下りてきました。
彼女は戦時下の広島・呉を題材としたアニメ映画「この世界の片隅に」
に出演していて、
その関係で監督とともにこの日の式典に参加されたようでした。



それにしても女優さんの放つオーラというのは強烈ですね。
一般人とはまったく違う輝きを持ち、
その美しい瞳を讃えた目は誰よりも大きなもののように感じられました。




式典が終わり、地下の会場を出ると、
すぐ外の部屋では上田宗箇流による抹茶とお菓子の振る舞いがあり、
二人でそれを有り難くいただきました。
6日の式典前後には各所で様々な催しや振る舞いがあり、
いろんな人たち、団体がそれぞれの立場で平和を希求しておられます。

式典会場入り口で献花用の花を受け取っていたので、
それを原爆の碑の前に置かれた献花台に捧げるため、
長い順番の列に並びました。

二人して列の東側の方に並んでいると、
そちらは日差しが当たるからということで、
西側に並ぶ中学生の間に加えていただくことになりました。

そこにいる中学生たちは遠くから平和学習のために来ていて、
年齢を聞くと14歳、ちょうど今浦さんが被爆された当時の年齢です。
そんなことで、たまたま一緒になった中学生たちも
今浦の話に耳を傾けてくれました。



子どもたちのみずみずしい笑顔は平和の象徴です。

原爆の碑に花を捧げ、
次は今浦さんの一歳年下だった亡くなられた弟さんが通われていた学校、
旧制広島市立中学校(現 広島県立基町高校)の慰霊祭へと向かいました。

基町高校へは炎天下車椅子を押して約二十分、
途中通る広島城の脇には赤や白の夾竹桃(キョウチクトウ)が咲いています。
夾竹桃は原爆が投下された後、
「75年は草木も生えないだろう」と言われた広島の大地でいち早く花を咲かせ、
広島の人たちに力と希望を与えてくれた平和と復興のシンボルです。


旧制市立中学の慰霊碑は、
以前は小網町というところの川の護岸にあったのですが、
河川工事のため基町高校校舎内に移設され、
今年は移設後初の慰霊祭です。

慰霊祭に向け、長崎の障害者の方たちが丹精込めて折った
折り鶴を届けさせてもらいました。



式典の司会・進行は基町高校の生徒たちが務めます。
その他生徒会の方たちの挨拶や献花、
ブラスバンドによる演奏など、極力生徒たち自身が主体となるように
会全体が運営されているようで、
その生徒たちの立ち居振る舞いがあまりにも見事なので、
そのことに最も強く心打たれてしまいました。

基町高校は県内で最も優秀な公立高校と言われていて、
そのことが、熱風の吹く中、
姿勢を崩すことなく凜とした態度で式に臨む生徒たちの姿から感じ取れました。

校長先生の話によると、
基町高校では被爆体験の継承と平和学習を熱心に行っているとのことですが、
それが言葉だけではないことが生徒たちの真摯な姿から伝わってきます。

この真摯な姿こそが、
何ものにも増す価値ある平和への大切なメッセージであり、
アクションであると胸に響き、
大きな安堵感をいただきました。

この子たちが親となり、
そして孫を持つ年齢となる時まで、
今の平和が永遠に続くことを願います。
そしてその実現の可能性の一端を、この慰霊祭で見ることができました。


今浦さんとはその後原爆資料館に行き、
被爆資料作成の担当の方と話をしました。

今浦さんは自身の被爆体験を手記としてまとめる作業をしておられますが、
あふれる思いがありすぎて、
何度書き直してもまとまりのないものになってしまうと、
それが完成しないことを担当の方にお詫びされていました。

被爆者の体験は、後世に残すものとして極めて貴重です。
ご自身でまとめるのが難しいのなら、
どなたかに聴き取ってまとめてもらうこともできるので、
その方向で考えてみることにしました。

資料館の後は、亡くなられた弟さんの同級生宅を訪ねたり、
きれいな日本庭園のある縮景園、県立美術館などに行きました。

夕方になってからは平和公園に戻り、
今夜川に流す慰霊の灯籠にメッセージを書きました。



今浦さんの向い側でメッセージを書いているのはドイツから来た女の子、
さらさらとペンを走らせていましたが、
彼女の胸にこのヒロシマ、原爆はどのように映ったのでしょうか。


灯籠流しが始まったのはまだ明るい午後6時、
それを眺めているうちに少しずつ周りは闇に包まれ、
午後9時まで延々と続けられます。



灯籠の流れる様子は元安橋のたもと、原爆ドームの側から眺めました。
その横に女性三人のグループがいて、
三人とも九州から来られているということで、
今浦さんたちみんなで話が盛り上がりました。

そして被爆体験手記の話をすると、
九州でその聞き取りをしているグループと親しい関係だとのことで、
長崎で聞き取りをしているそのグループの方を紹介してもらえることになりました。

なんという偶然、タイミングでしょうか。
これできっと今浦さんも胸のつかえがひとつ取れたことと思います。


平和とはみんなの力で創り上げていくもの、
その尊さを、毎年この8月6日に思います。

平和が永遠でありますように。
未来のため、子どもたちのため、
そして全人類のために。

2018.8.6 Monday  
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