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2017年11月27日 ・・・ 拷問か教育か

学校や公共の場所にあるトイレを掃除するようなって八年になります。
その間人生に於いていろんなことがあり、
その折々でトイレ掃除は自分の心に大きな影響を与えてくれました。

『トイレ掃除は心磨き』
この言葉の持つ意味合いを深く感じ取ることができるので、
これまでトイレ掃除活動を続けてくることができました。

自分にとってトイレ掃除とは何なのか、
それを今あらためて考えてみて、
ひとつは浄・不浄、この概念を改める機会であったと感じます。

不浄とされるものでも生きるために欠くべからざるものです。
口に入れる食べ物、それを盛りつける器が大切であるように、
その対極である排泄物、それを受け止める便器もまた大切です。

生きるために必要である不浄なものの持つ役割、
そんなことが身にしみて感じられます。

二つ目はトイレ掃除が究極の下座行であるということ、
自らの素手で不浄とされる便器を磨かせてもらうことにより、
便器に感謝できるようになり、
それがひいてはすべてのものに感謝できる気持ちを養います。

トイレ掃除は究極の下座行であり、
また究極の感謝行であると感じます。


ここ広島ではこのトイレ掃除活動が特に盛んです。
それは過去に子どもたちとともにトイレ掃除をすることにより、
非行に走っていた子どもたちが更正し、
荒れていた学校が立ち直ったという数多くの実績があり、
それを活動する人たちが身をもって感じているからです。


今月10日、積極人間の集いで、
非行に走ったりシンナーを吸ったり、
恵まれない境遇にいる子どもたちを救うために、
私財を使って四十年近く食事を提供してきている
中本忠子(ちかこ)さんのお話を聴きました。

中本さんによると、
非行に走ったり横道に逸れてしまう子どもというのは家庭環境に恵まれず、
いつもまともな食事を与えられず空腹で、
それを満たしてあげることでまともに生きようとする力が湧いてくるのだ、
とのことでした。


中本さんはその素晴らしい功績を讃えられ、
「広島のマザーテレサ」と呼ばれています。


積極人間の集いでは、ゲストスピーカーの話の後で、
参加者一人一人がコメントを述べることになっています。

その日は、自分をトイレ掃除活動へと導いてくれた
先川孝德さんも来られていました。
先川さんは長年広島県警で非行少年、暴走族、暴力団や凶悪犯罪の対策に
務められてきた方です。

先川さんは中本さんの活動とご自分がしてこられたことが重なるのでしょう、
声を詰まらせながらこのようなことを話されました。

「県警にいた頃、非行少年を減らそうと彼らを検挙することに
 躍起になっていました。
 上からは民間企業と同じように検挙数の目標が与えられ、
 それが年々増えていき、私たちもヘトヘトになっていきました。
 けれどそれで子どもたちの非行が減るかというとそうではありません。
 逆に数は増えていったのです。
 これは草刈りと同じです。
 いくら草をたくさん刈っても、その根っこを取り除かなければ、
 本質的な問題解決にはならないのです」


そして先川さんが見つけられた解決策というのがトイレ掃除です。
先川さんのトイレ掃除に取り組む姿勢には鬼気迫るものがあります。
それは先川さんの実直な性格もあり、
また磨き上げようとする便器の向こう側に、
これまで関わってきた多くの少年たちや犯罪者の姿が
浮ぶからなのだと思います。


トイレ掃除活動は極めて大きな力を持つものですが、
あまりにも極端なため、
時には批判を受けることもあります。

先日ネットでこのようなページを見つけました。

<生徒が素手で便器を洗い、大臣が便器の水を飲む。
 これが美談として扱われるのはおかしい | netgeek>




このページを書いた「腹ブラック」さんによると、
子どもたちに素手でトイレ掃除させるのは科学とは対極にある精神論で、
そのようなことが今の世にまかり通っているのはおかしいとのことてす。

トイレ掃除は精神的教育であり、
これについていい悪い、様々な意見があるのはもっともだと思います。
けれどその効果を身を持って体感しているものからすると、
自ら体験することなく、
その意義を否定する意見述べられるのはとても残念です。


ここに書かれていることに少しコメントしてみます。
子どもたちには素手でトイレ掃除することを強制しているわけではありません。
たぶんどこの会でもビニール手袋を用意し、
希望者にはそれを使ってもらっているはずです。

しかしながらその場の雰囲気で、
素手で掃除するのが当然といった空気になることも事実です。
そしてこれは体験して感じてもらわなければ理解できないことですが、
素手で便器を磨くからこそ感じ取れるものがあり、
子どもたちの心も変っていくのです。
これは理論で証明したり数字で表わせるものではないので
伝えることはできません。
是非とも実際にトイレ掃除に関わった子どもたちの姿を見てください。


野田聖子議員が昔帝国ホテルで働いていて、
その時に自ら磨いた便器で水を飲んだという話は知りませんでした。

けれど同じような話はトイレ掃除の会の中にもあり、
ある人が小便器の水濾しを完璧に磨き上げ、
その徹底ぶりにその人自身感動し、
そこにビールを注いで飲み干したとのことです。

これはトイレ掃除活動を長年している人でも簡単にできることではありません。
自分にはできませんし、
またできるようになりたいとも今のところ思いません。

これはそこまで徹底的に便器を磨き上げる、
それが完璧にキレイになったという自負を持つ、
そのプロ意識が極めてすごいことだと思います。

けれどそこまで磨き上げても、
それが “汚い” という浄・不浄の感覚になると、
それは受け取る人の意識次第なので、
その思いを強制的に変えさせることはできません。

自分としては、トイレ掃除の効用を感じ、
また日本は異常なまでの潔癖社会なので、
これはそのアンチテーゼとしていい話だと受け止めます。
これはあくまでも個人の感覚です。

そしてさらに言うならば、
このページを書いた「腹ブラック」さんは、
『日本では科学と対極にある精神論がいまだまかり通っている・・・』
と書かれているので、たぶん科学信奉者なのでしょう。

だとしたら、きれいに磨き上げた便器は、
素材がツルツルの磁器なので雑菌の残る余地はありません。
「食器洗い用スポンジは便座以上に雑菌が繁殖している」
というニュースからも分かるように、
“科学的” に見て、普段使っている食器よりも
高い確率で衛生的だということお伝えしたいと思います。
    <ウソー! キッチンのスポンジは便座の20万倍汚い!>


もうひとつ、そのページには、
こういったツイートを引用し、
トイレ掃除活動を拷問と同等のものと捉えています。


これは大いに疑問です。
スタンフォード監獄実験というのはとても有名で、
その実験内容について何度も目にしたことがあります。

人間は与えられた環境によって人格、考え方が大きく変化し、
スタンフォード大学で行われた監獄実験では、
実験が進む中で看守役の学生はより権力的、残忍になり、
囚人役の学生はより服従的、被虐的になり、
あまりにもその傾向が顕著に現れたため、
実験を途中で中止せざる得なくなったというものです。
  <スタンフォード監獄実験 - Wikipedia>

その中で、囚人役の人たちに屈辱感を与えるため、
素手で便器を掃除させたので、そう書かれているのですが、
監獄実験とトイレ掃除活動ではあまりにも条件が違いすぎます。

どんなことでもそうですが、
ひとつのもの、ひとつの行為、
それ自体に意味や価値があるのではありません。
それとどのように接し、どんな思いを持つかによって、
その意味も価値もすべてが変ってきます。

素手で行うトイレ掃除に限らず、
運動選手が行っている厳しいトレーニング、
武道家が行う寒中訓練、宗教家が行う様々な行、
それらすべてが嫌な人間に強制的に行わせたならば拷問です。

トイレ掃除は監獄のように、
囚人にのみ強制的に行わせるものではありません。
ほとんどの場合、参加するのは希望した生徒です。
そして保護者の方たち、先生も一緒になって同じ条件で便器を磨きます。

『ブラック企業や悪質な宗教ではターゲットを洗脳するために意味のないことを繰り返し行わせ、思考能力を奪うことがある』

とのことですが、トイレ掃除はひとつの学校で
そんな高頻度で行われるものではありません。
希望される学校には何度も繰り返し行きますが、
それでもせいぜい年に一度です。

トイレ掃除はどのような意義があるのか、
どんなことを感じ取ったのか、
それは掃除が終わった後で全員が意見を発表し、思いを共有化します。
そして全体の会でもグループの代表者が感想発表し、
けっして思考能力を奪うようなものではありません。


とにかく理屈ではなく、
これは感じ取らなければ理解できない世界です。

理屈から考えれば不浄なものは隠蔽し、
目に、そして手に触れたくないと考えるのが一般的です。

そしてその思いの行き着いた先が、
今のような高度にシステム化された社会です。

日本の街を歩いていて、
そこに不浄とされるものを目にすることはほとんどありません。
そしてそれと同時に、自然、生の営みもまたまったく見えてきません。

自然とはただ花があったり木が植わっているということではなく、
人間で言うならば生老病死、
浄なるものも不浄なるものもすべてを含めた生命の循環サイクル、
すべての動植物が互いに活かし合って存在している、
そんな全体像が自然であり生の営みです。

インドの貧しい村に行くようになり、
その自然からかけ離れた日本の姿に
強い違和感と危機感を覚えるようになりました。

人間はどんなに頑張っても自然の一造物であることに変わりありません。
そしてその自然の一造物である人間が、
自然から隔離された生活を送るようになると、
どうしても生きるための根幹に必要な感覚が鈍くなってきます。

そこから生まれるものが破壊的な現代文明であり、
自然破壊、様々な現代病、幸福感の欠如、社会的不適合者の増加、
そういったものであると考えます。


この自然と相反する方向に進んだ現代文明を矯正するためには、
今の自然から隔絶した人間の生き方を見直す必要があります。

そしてその一環として、浄・不浄の概念を見つめ直す
トイレ掃除活動は実に有益であると考えます。

またそういった社会になったからこそ、
素手で行うトイレ掃除を忌み嫌う人たちも出てきたのだと思います。

けれどよく考えてみてください。
現代文明が行っている自然破壊活動は、
もうすでに地球の自然が持つ許容量をはるかに超え、
その結果として世界各地で大きな自然災害や異常気象が頻発しています。

今のまま人間の都合による浄なもの、便利なもの、
快適なものを追い続けていると、
その行き着く先には何があるのでしょう。

外で風雨が吹き荒れようと、
たくさんの食糧に囲まれ、空調の効い部屋で快適に過ごせる時代は、
そう長くは続きません。

脅すわけではありませんが、
そうならないためにも、
今の段階で自然に対する接し方を改めていく必要があります。

繰り返しますが、
自然とは美しく咲くきれいな花だけではありません。
荒れ狂う風雨も厳しし暑さ寒さも、
それらを含めたすべてが自然の姿です。


思うことをストレートに述べさせていただくと、
たかが素手で便器を磨くことを拷問と捉えるその感覚、
それこそが異常です。

そういったことを避け、自らの狭い価値観の中にある
浄、快適性ばかりを求めていると、
最終的に行き着くのは人類の根底的な住まいである地球環境の崩壊であり、
そうなった時には、これまでの概念で不浄、不便、不快な環境に
いやがおうでも身を置かざるえなくなります。
これこそが真の拷問です。


素手で行うトイレ掃除をひとつのテーマとして、
そこに現代人の生き方がよく表れています。

自らの体験から、トイレ掃除は素晴らしい人間教育だと考えます。

自らが浄と思うもの、便利で快適なもの、
その世界からは一歩も抜け出したくない、
こういった『心の監獄』から抜け出て、
真に素晴らしい自然を体感していただくことを願います。

2017.11.27 Monday  
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