妖刀
最近映画「座頭市」を二本立て続けに観ました。

はじめに観たのは勝新太郎の名作「座頭市」、

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とにかく勝新が素晴らしい、
殺陣も本格的で全編にみなぎる緊張感は今観てもまったく古さを感じさせません。

盲目ながらもそこにいるだけで鋭い殺気を感じさせるのは、
勝新の役者としての存在感のなせる技でしょう。
殺気、障害者としての悲哀、勝新の体から発するオーラには圧倒されます。

晩年は“パンツに麻薬が・・・”などというとんでもない事件で世間を騒がせましたが、
まあ多少常軌を逸した人間でないとこれだけの演技はできないのでしょう。


つづけて2004年に北野武が監督、主演をした「座頭市」を観ました。

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勝新の「座頭市」があまりにも名作、名演技ゆえ
かなりのプレッシャーがあったでしょうし、
なぜ彼がこの作品を選んだのかとても疑問だったのですが、
やはりタケシも現代の天才、
勝新のものとはまったく違った切り口で“北野ワールド”を楽しませてくれます。

タケシ座頭市はよくも悪くも現代的、
踊りあり、タップあり、ズッコケあり、
カメラワークも意図的にハイテクっぽいものを取り入れて
今風の楽しませ方で魅せてくれます。

けれどもそれがストーリーの流れに水を差し、
単なる“お笑い”に終わってしまうことなく、
しっかりと緊張感を保ったまま座頭市の凄みを感じさせるのはさすがタケシです。

同じ座頭市でも勝新はその図太くたくましい体躯から発せられる肉体的殺気なら、
タケシのそれは、知的な、ちょっと狂気にも似た殺気を感じさせます。

チャンバラ物は、今はテレビでも映画でも
殺陣で相手が斬られても血が流れない、
というのがほとんどの場合“お約束”になっていますが、
タケシ座頭市はデフォルメ気味ぐらいにハデな血しぶきが上がります。

どうせ血が流れるのなら、
これぐらい嘘っぽくハデに流れた方が陰惨な感じがしないものです。


そのハデな血しぶきを見て、
数年前日本刀にはじめて触れた時のことを思い出しました。

妖刀

知り合いの家に呼ばれて庭の鉄板で肉を焼き、ビールを飲み、
多少ほろ酔い加減の私の目の前に、
知り合いが倉庫の荷物の中に仕舞ってあった日本刀を二本取り出してきて
見せてくれました。

それは上の写真のような鞘も鍔(つば)もない刀身だけのものでしたが、
イミテーションではない紛れもない本物の日本刀で、
刃先が鋭くとがっています。

目の前で本物の日本刀を見て、手で触れるのは生まれてはじめての経験でした。

日本刀を握ると右手にずっしりと重みを感じ、
青白く光る刃先は妖しい美しさを放っています。

二本の日本刀は長さも形もほぼ同じです。
ただ少し厚みが違うのでしょう、明らかに重さに若干の差があります。

けれども持ってみてはじめて分かったのですが、
この二本の刀は、重さ以上に持った時の感覚がまったく異なるのです。

重い刀と軽い刀、
普通は重い重量感のある刀の方が刀としての質感を感じるはずなのですが、
軽い刀は重い刀にないある特別な感覚が体に走るのです。

重い刀はただずっしりと重いだけ、
単なる金属のかたまりという感覚以上のものは感じられません。

一方軽い刀の方は軽さゆえに少し質感に欠けるものの、
持っているといかにも刃物を持っているという緊張感がわき上がり、
フーッと気が静まり、血の気が引き、
それと同時に目が据わり、この刀の刃先に神経が集中し、
“何かを斬ってみたい”という強い衝動に駆られるのです。

はじめは気のせいかと思い、何度も二つの刀を交互に持ち替えましたが、
何度持ってみても軽い方の刀には
何か体の内から特別な感情をわき上がらせる力があるように思えます。


“妖刀”という言葉があります。
ある特別な技を持った職人が思いを込めて造った刀には念のようなものが籠もる、
人を斬り、血を吸ったことのある刀は再び血を求める、
そのようなことを昔から何度も聞いたことがあります。

この軽い日本刀がそのような妖刀なのかどうかは分かりませんが、
昔は“武士の魂”とまで言われた日本刀には
人の心を動かす大きな力が宿っているのを感じます。


武士は主君に絶対的な忠誠を誓い、
主君の名誉のためには死をも厭わず、
そのためには潔く切腹までしました。

お互いの名誉のための諍いはすぐに刃傷沙汰にまで発展し、
斬った貼ったのイザコザは今よりも日常的だったと思われます。

昔の人は、今の人たちよりも死の恐怖心が薄かったのだろうか、
なぜ名誉や忠誠というものの大切さを
己の肉体的生命よりもはるか上位に置けたのだろうか、
そんな疑問がこの度実際に日本刀を持つという経験をしたことによって
少し体で理解できたように思えました。

日常常に腰に日本刀を差し、寝る時は枕元に置き、家宝のように大切にし、
時にはそれを振り人を斬りつける鍛錬をする、
このような環境に生きていたら、
死、あるいは人を斬るという行為がきわめて身近なものという感覚になるのは
当然のことのように思えます。


最近もアメリカの大学で銃を乱射する悲惨な事件がありました。

日本では幸い銃刀類の規制が厳しく、
殺傷能力のある銃や刀を一般人が持つことはきわめて難しい状況です。

これは今から400年以上前、織田信長が刀狩りを実施し、
農民から武器を取り上げたことに端を発していると言われています。

これがお上に従順な日本人の精神土壌を培った一因でもあるのですが、
取りあえずは物騒なものが身近にない今の状態は
本当にありがたいものだと思います。

あの刀を持った時の目が据わり、
何かを斬りたくなるような感覚、
あまり味わいたいものではありませんので。


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