原爆とボクたち
世界最初の被爆地広島に住んでいると、
終戦後62年が経とうとする今でも原爆や戦争に関するニュースをたびたび耳にし、
平和について深く考えさせられる機会が多くあります。

広島には平和公園があり、原爆資料館があり、被爆建物があり、
原爆、戦争の悲惨さを感じることのできるものはたくさんあるのですが、
その中でも最も心を打ち、戦争の愚かさを強く訴えてくるのは、
人類未曾有の悲惨な原爆を体験された被爆者の方たちの生の声です。

原爆の熱線でねじ曲がった鉄骨を見るよりも、
一面焼け野原になった被爆直後の広島市内の写真を見るよりも、
実際にあの悲惨な状況の中を生き延びてこられた被爆者の方の
その魂の奧から絞り出すように語られる
「もう二度とあのような悲惨なことは繰り返してはならない」
という言葉により深い平和へのメッセージを感じます。


私の身近なところにも被爆者の方が何人かおられます。

以前から懇意にしていただいている縄文塾の中村忠之さんは76歳、
原爆が投下された昭和二十年当時は14歳、
広島市内中心部にある旧制広島県立第二中学校(現県立観音高校)二年生でした。
  (中村さんの被爆体験「霊気に護られて」)

先日中村さんの同期会(ポプラ会)のホームページ
その中で主に被爆体験を紹介している「原爆とボクたち」のコーナーを
作らせていただきました。

人の運命とは分からないものです。
中村さんが普段通っていた学校や作業場は爆心地にほど近いところで、
そこで被爆したならば原爆の熱風や炎で生命を落とすか
大怪我、大火傷をされていたはずです。

その頃は夏休みでしたが、一年生と二年生が交互に学校と作業場に通っていました。
作業場は当時の水主町、今の加古町で平和公園のすぐ南側です。
その日は一年生が作業場の当番で、一年生321人と6人の先生は全員亡くなられました。

中村さんたち二年生はやはり爆心地に近い学校へ行く日だったのですが、
たまたま原爆投下の前日の8月5日、ある引率教師が翌日6日の作業を
広島駅北口にあった東練兵場の芋畑の草取りにしよう提案したため難を逃れ、
熱風による火傷を負ったものの一命を取り留めたのです。

そういった経緯を含めた被爆当時の広島市内の様子がここに書かれています。
是非ご一読ください。
  ボクたちの原爆体験記 ポプラは語り継ぐ


国内外から広島に訪れる多くの方が、
平和公園の中にある原爆資料館、原爆ドームを見学に行かれます。
どちらも平和の尊さを訴える貴重な施設ではありますが、
その際には是非はその二つの建物の中ほどにある
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館を訪ねてみてください。

ここにはたくさんの被爆手記、
数百名にのぼる被爆者の貴重な映像証言が収められていて、
ここを訪れた人は自由に閲覧することができます。

繰り返しますが、
被爆者の方の証言ほど私たちの胸に強く平和の大切さを訴えてくれるものはありません。

私はこれらの資料を自由にネット上で閲覧できるよう、
そしてできるならばそれに外国語の字幕を付け外国の方にも理解していただけるよう、
現在管理している広島市に対して訴えを続けています。


原爆を体験された被爆者の方の数は年々少なくなっています。
そして被爆者の方はそのあまりに悲惨な体験ゆえ、
なかなか人前でその体験を口にすることができず、
語ることができるようになるまでに何十年もの歳月を要したという方が多いそうです。

そしてその重い口を開かれた方みなさんが一様に言われるのが先にあげた
「もう二度とあのような悲惨なことは繰り返してはならない」
この言葉です。

世界初の原爆被害を受けた広島市民、日本人はこの言葉を深く胸に刻み、
その貴重な願いを成就させていく役割があると考えています。

それが広島14万人、長崎7万人の原爆による死没者の霊を弔う
最も尊い供養なのですから。


ひとつ前へ ホームへ メニューへ 次へ