偏見と先入観 |
偏見と先入観、偏った見方、固定的な概念、 誰しもが持ち、できればそれを捨て去った方がいいと考えているもの。 先日たまたまインターネットで面白い画像を見つけましたので、 今日はそのことについて考えてみたいと思います。 偏見と先入観、どちらも必要悪といった面があります。 身の回りにあふれている膨大な量の情報と刺激、 人は、それを各自が持っている様々な思い込み、固定概念で処理、判断し、 そのものの実体をを見ることなく、ひとつのパターン化された思考に当てはめ、 それに当てはまらない際立った特徴のみをそのものの特質と判断し、 頭の中で処理しようとします。 これは一種の効率化された情報処理の手法です。 ビデオなどのデジタル機械による画像処理でも同様です。 一秒間数十コマの画像、それらひとコマ、ひとコマの画像情報が すべてそのままの形で記録されているのではありません。 流れるように連続したシーンでは、 その前のコマとの「差異」を記録し処理した方が、 そのままの形で情報を記録するよりも、 はるかに少ない情報量でより多くの画像を記録しておくことができます。 すべてのものを新鮮な目で見て感動をする、幼い子供のような、 あるいは生まれて初めて海外旅行に出かけた観光客のような、 そんな気持ちで日々過ごせたら、それはそれで感動的ではありますが、 24時間エネルギーを使いっぱなしでヘトヘトになってしまうことでしょう。 真実があってもそれを見ざる、 真実があってもそれを聞かざる、 真実を知ってもそれを言わざる。 人が「三猿状態」になってしまうのは、 いたしかたないことなのかもしれません。 ただやっかいなのは、自分の中にある偏見、先入観という固定概念を、 自分ではなかなか認識することができないということです。 人はいかに固定概念でもってモノを見ているのか。 ず〜っと下の方にある画像を見てください。 ↓ ↓ ↓ どうですか? 目がチカチカしませんか? この画像、点滅したり動いたりはしていません。 人間の持つ固定概念、 人間の目は横一列、ふたつ、口は下の方にひとつだけ。 生まれてから何十年という間に培ってきた 「人間の顔」に対する固定概念です。 上の「人間の顔のようなモノ」に対しても、 この固定概念を当てはめようとし、視覚から入ってくる実体の情報と 頭の中にある固定概念とが混乱、錯綜してしまうのです。 固定概念、とらわれをなくすということは、 とても難しいことです。 それができるのはこんな人(←クリック(^^)v)だけかもしれません。 バカボンの語源はバギャバン、 梵語(サンスクリット語)で「とらわれの無い人」のような意味です。 とらわれをなくし、 真実を見て、聞いて、語れる、 そんな人間になりたいものです。 2004.11.14 Sunday |