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旅を終えて<1>


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インドから帰って三週間以上が過ぎ、
今さら旅の感想を書くのは的外れのような気もするのですが、
やはり総括として書くべきものは書かねばと考え、
ここに今回のインドの旅で感じたことを記します。


インドのホームにいる時、
朝夕は子どもたちと触れ合っていても、
日中はのんびりと過ごすことがほとんどでした。

けれどインドと日本の時間の流れはあまりにも違いすぎ、
インド流とも言える悠久の時の流れに身をゆだねていると、
文字を弄してパソコンで日記を書くという作業がとても苦痛に感じられ、
なかなか作業を進めることができませんでした。

時間的にそんなに多くかかることではないのですが、
頭を切り換えること自体に負担を感じ、
インドでは、この日記を書く作業がなければどんなにいいだろうと何度も考えました。

そんなことで、十日分ぐらいを書き残した状態で日本に戻ってきたのですが、
帰国はマレーシア経由で機中泊を二回はさみ、
ホームで子どもたちと遊んだ疲れも一気に出て、
帰国時はまさに疲労困憊の極みといった状態でした。

その状態で大慌てで日本で控えていた行事をいくつかこなすと、
今度は原因不明の腫れが手足何カ所かにでき、
一時は歩くのも不自由するほどでした。

病院で診てもらっていないので原因は分かりませんが、
インドで食べたものが当たったのか、
あるいは大量の蚊に噛まれた毒が回ってきたのか、
考えられるのはそんなことです。

その後も喉の調子がおかしくなったりと、
本調子に戻る前に時はどんどん過ぎていき、
今はお陰様で腫れも喉もほぼ完治という状態に至っています。


インドでいったんアナログモードになった頭はそう簡単に元に戻りません。
また潜在意識の中に戻りたくないという強い意志があったのも事実です。

日本に戻り、関空から一歩外に出た時、
見える景色は近代的で華やかでも、
その後ろ側に生気といったものがまったく感じられず、
まるでモノクロームの世界を眺めているようでした。

外国に行く一番のメリットは、日本のことがよく分かることだと感じます。
それとは逆に、インドから日本に戻ってきて、
いかにインドの町や人々が活気に満ちあふれていたかということを
痛切に感じます。

町、樹木や動物を含めた自然、そして人々、
インドではそれらすべてに生命が満ちあふれ、
決して秩序だってはいないものの、
その本性に従って互いの関係を築いています。

日本は社会も街並みも、
理路整然とした秩序と美観を保った素晴らしい国ではありますが、
『文明とは自然から離れること』という今回のインドの旅で得た気づきの通り、
今の日本はあまりにも自然から乖離しすぎています。

もちろん日本にも美しい海や野山がたくさんありますが、
そこには高度にシステム化されたものが多く入りすぎ、
シンプルな命の循環を肌身で感じることができません。

人間はあくまでも自然の一造物であり、
その一造物が自然から離れ、
頭ばかりが発達し、生命の営みを五感で感じることができなくなると、
進むべき方向性を誤ってしまうのは自然の理です。

今回はそんなことを強く感じ、
しばらくは日本の日常に戻ることに拒否反応があり、
パソコンに向かって作業することがとても億劫になってしまいました。


今回インドで感じたことで目新しいものはあまりありませんが、
これまで感じてきたことがさらに深まってきました。
それはインドの日常が、
自分にとっての “日常” に近づきつつある証だと感じます。

今回もたくさんの写真を撮り、日記の中ににアップしましたが、
その枚数は今までの中で最も少なく、
また今までに撮ったのと同じようなものが多かったと思います。

インドのホームの生活は規則正しいリズムで営まれており、
その中に物珍しいものはあまりありません。
ただその日々繰り返される日常の営みが生気に満ちていて、
日記の中にも書いたように、本当の喜びというものは、
その日常の中にこそあるのだということを強く感じました。

日常に喜びを感じられないことはとても不幸です。
日常とは生きる根本であり、己の内面の真の姿です。

非日常の特異なことばかりに目が行き、
そこにのみに喜びを見出そうとすることは、
日常という根本を疎んじていることであり、
今この瞬間の自分を愛せていないことに通じます。

自分の内面に喜びを見出せない人が、
いくら外に目を向けてみたところで、
いつまで経っても恒久的な幸せを手に入れることはできません。

今回このことに気づき、
自分の中で深く得心すると同時に、
それが極めて身近なことであったことにとても驚きました。

身近なこと、単純な事の中にこそ深い真理がある、
そのことをこれまでも強く感じ、
このホームページでもたびたび書いてきましたが、
まだまだごく身近なことの中に、
エアポケットのように目を向けていない真理があるのだということに気がつきました。


日本の社会は情報にあふれています。
あふれているがゆえ、
どのような概念も最低限知識としては理解できていて、
それに基づく判断力も、
ある程度は本質を捉えていると考えてしまいがちですが、
実際はそんなことはありません。

例えば清潔という概念がそうです。
食事の前にはきれいに手を洗う、
それが常識であり、
清潔は、清潔でないものよりも絶対的に善なる存在であると信じ、
それを疑うことはまったくありません。

けれどインドに行くとその概念は崩れます。

インドのホームでは、食事の前に手を洗う習慣はありません。
特に何かがついている時は洗うことはありますが、
通常はそのままの食事に向かいます。

そしてその手で直接食べ物を口に運び、
また自分の手で掴んだ食べ物を、
周りの他の人の口に直接入れることもあります。



食事が終わった後で食器や手を洗う時も、
大きなバケツの中の水を各自の食器を使って少しだけくみ出し、
その水を使うので、水道水のように常に水はきれいな状態というわけではありません。
バケツのそこには米粒が沈み、水の表面には油膜が張っていたりするのです。

それで病気が感染するのであれば問題ですが、
そうでないのであれば、
身の回りの様々なものを “穢れ(けがれ)” として排除するよりも、
それと上手く、そして仲良く付き合っていく方が、
より自然で人間らしい暮らしではないでしょうか。

自然とともに暮らすインドでは、
この多くのものを許容する自然なスタイルが合っています。

上の写真はトリチーのホームで撮ったものですが、
食事が終わった後の “ブラザー” は特別待遇で、
子どもがコップ一杯の水を持ってきてくれて、
その水をお皿の上から垂らし、右手を洗わせてくれます。

それで指先のべたつきが完全に取れるわけではないのですが、
まだ多少残っている食事の残存物よりも、
子どもたちが心を込めて水をかけてくれた、
その行為に対する喜びが強く胸に残りました。

手先に残っているものは “汚れ” と言えば汚れですが、
それは自然なものとして受け止める方がより自然であり、
その自然の中で暮らす人間の生き方として、より上質なものではないのでしょうか。

“清潔” がいけないというのではありません。
その “清潔でなければいけない” という考え方が人を自然から遠ざけ、
多くの苦しみを生み出す元凶であるのだと感じます。


これも日記の中に書いたことですが、
そうなってしまった大きな原因が、
道具を使って食事をするようになったところにあると感じます。

フォークやナイフ、箸、そういった道具を使って口に食べ物を運ぶようになり、
人と食べ物の関係がそれまでより遠いものとなってしまいました。
本来は命の糧を得るためのものであった食事が、
舌を楽しませるものへと、その重点が移り変わってしまったのです。

道具を使って食事をするのは清潔であり、
また便利な面もありますが、
それは食べ物から得られる大切な何かを失わせてしまうような感覚があります。
そのことをインドで日々直接手で食べ物を口に運んでいて感じます。

インドでは一度たりとも手で食事をすることに抵抗を感じたことはありません。
インドで提供される食事はバリエーションが少なく、
日本料理ほど手の込んだものではありませんが、
食材そのものの鮮度が高く、体が喜ぶ生きた食事です。

そういった生きた食べ物は、
手という人間の体の一部を使って直接口に運ぶ方が、
その食べ物の持つ生命エネルギーを余すことなく取り入れられるように感じます。


食事の前に手を洗う、
フォークやナイフ、箸、そういった道具を使って食事をする、
それらが悪いと言っているわけではありません。
それらの行為を単独で価値を決めることはできません。

けれどもすべてのものは繋がっています。
ですから食に関して、自然から遠ざかろうとする “文化的” 行為は、
人を食の本質から離れさせ、美食に走らせ、
遠く離れた土地で採れる旬でない食材を求めたり、
遺伝子組み換え食品、
添加物だらけで常温でも長い間腐ることのないコンビニ弁当等
様々な不健康的加工食品を作りだす大きな原因となっています。

“風吹けば桶屋が儲かる” 的な話のように聞こえるかもしれませんが、
それらは確実に繋がっていて、
それらがひとつの大きな流れを生むというのは間違いのないことです。

日本の社会にいて、ほぼ絶対的に善と感じるようなものでも、
それが波及するにつれ、
とんでもないものを生み出すこともあるのです。

そのことは不幸にして日本にだけいてはなかなか感じることはできません。
それは日本的常識がグローバルなものではなく、
井の中の蛙の如く狭い世界の中の常識であり判断だからです。


この食事のことはひとつの例ですが、
他のすべての面で、これまで日本の中でほぼ常識、
絶対的なものとして捉えていたことが、
実はそうではなく、ごく限られた範囲内での物の見方であったということを、
このたびのインドの旅で強く感じました。

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