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ヨガナンダ



宗教を思う

毎回インドに行く時には関西国際空港から出国し、
その前日は奈良県天理市にある天理教の教会(講)に泊まることにしています。
今は天理教の信仰はしていないものの、
自分にとって精神世界を志す原点であり、
また天理教の先生が宗教者として尊敬できる方なので、
温故知新、インドという異国に旅立つ前に、
思いをあらたにさせてもらっています。

日本出国前は天理教、
インドのホームではキリスト教の礼拝、
そしてインドとのご縁を作ってくださった日本山妙法寺の道場(お寺)では、
法華経のお題目である南無妙法蓮華経を唱えます。

自分にとってインドとは、
人と宗教との関わりを考える場でもあり、
特に今回は、初めて帰路も天理に立ち寄り三泊し、
より深く宗教についての考えを深めることができました。


日本出国の前日に天理に行った際、
まさに自分が欲しいと思っていた大きくて、
しかも安価な旅行バッグを商店街で見つけることができました。

そしてインドでそのバッグを見たスギルタンから、
「インドにはそんな便利で使いやすいバッグはないから譲ってくれ」
と言われ、その場に彼にプレゼントしてしまいました。

けれどそのバッグはとても使いやすく、またどこにでもあるものではないので、
“これはもう一度天理に行けということだ”
と直感的に判断し、関空から広島に戻る前に天理に寄ることにしたのです。、


二十数年前に人生のバブルがはじけ、
いちから人生をやり直そうと日雇いの土木仕事をはじめた時、
身体から湧き上がってくる感覚の尊さを知りました。

疲れ切った体で入るお風呂は最高に心地よく、
空腹の時に食べるご飯は美味しさが身に染み、
知識から得るのでも他と比べて成り立つのでもない、
己の肉体を通し得られる嘘偽りのない感覚を知りました。

この感覚が間違いのないものだということは理屈ではなく体で分かります。
知識や情報、比較から得られるものではないのですから、
どんな時でもその感覚がぶれることはありません。

そしてこの感覚は生命を保つ本能的なものであり、
最も根源的なものとして心と体の奥底から湧き上がってくるもので、
これを思考や判断の中心にしていれば迷うことも不安を感じることもない、
そのことを、頭ではなく身体全体で感じ取ったのです。

またその当時、『生き方の師匠』としてお付き合いしていただいていたある女性から、
“自分に素直になりなさい”、“自分を愛しなさい”、
このことを何百回も何千回も、会うたぴごとに繰り返し繰り返し言われ続け、
人生に絶望感を抱いていた当時はなかなかそれが実践できなかったものの、
少しずつその考え方を自分のものにしていくことができました。


人間にとって最も尊い能力は判断力であると感じます。
そして正しい判断をするために大切な事は、
たくさんの知識や経験を積むこと以上に、
自分自身の直感を研ぎ澄ますことであると考えています。

その直感を研ぎ澄ますためには、
自分の心の奥に耳を澄ますこと、自分に素直になること、
不要な情報や感情に惑わされないことが必要であり、
この二十数年間はそのことを強く意識し、
常に内なる声に耳を澄まし、目を傾けるようにしてきました。

直感とは、頭で考えるものではなく、
心の奥、身体の中から湧き上がってくるものです。
この源泉を身体の部所でいうならば、明らかに頭部ではありません。
心のありかと言われる胸、あるいはお腹、
または自分の体の外、そういったところです。

ですから直感力の研ぎ澄まし方を肉体的に考えるならば、
頭部にある不要な知識、感情を捨て去ること、
背筋を伸ばした正しい姿勢をとること、
お腹を健やかに保つこと、
体を適度に使い、疲労した体の回復過程を味わうこと、
その時々の瞬間、爪の先から頭のてっぺんまで、すべてを意識すること、
こういったことがあるだろうと考えます。

そういう意味では、直感とは頭脳と肉体とを結ぶ、
肉体的思考だと言えるかもしれません。


宗教とは、この時空、宇宙を律している法則であり、
その法則に基づいた生き方の指針であると考えます。
そして人々は、自分に合った宗教を信じることによって自らの価値観を築く一助とし、
生きる糧、または救いを求めます。

理想主義者の自分にとって宗教とは何かと考えたならば、
その本来的意味合いから、より根本に立ち返った自然法則そのものであり、
そこから直接的に感じ取れるものの中にこそあるのだと考えます。

宗教は信じるもの、信じることによって初めて開かれるものではなく、
誰もが自然の様相として感じ取れるものであると考えます。

人類はいつの日かきっと、
この全人類が共通の基盤として持っている自然、生命の法則を元に、
諍いのない、ともに手を携えた歩みのできる世界を築くものと信じます。

きわめて理想的で夢のような考え方ですが、
究極的には物理学も宗教も垣根のない同一のものとして扱われるべきであり、
偉大な生命システムの上に生きる人類ならば、
それはきっと不可能なことではないと考えます。

自然、生命の律法はきわめてシンプルですが偉大です。
その偉大な律法を具現化した肉体、そこから湧き上がってくる直感は、
何よりも大切にしなければなりません。

けれども不完全な人間の直感には時として過ちが生じる危険性があり、
それを正していくことが自然と真摯に向き合うことであり、
その苦悩を伴うかもしれない直感を正す過程もまた、
宗教の本質であり、宗教そのものであると考えています。

正しい直感は、自分に素直でなければ得ることはできません。
そしてその自分そのものが、
自然、生命、その法則と、完全に融和していなければならないのです。


自分は宗教についての体験はあるものの、
専門的に学んだことはありません。
知識としてある程度知っているのは天理教だけですが、
本来宗教とは普遍性を持つものであり、
天地自然のあり方からその理想の姿を問うことは十分に可能だと考えます。

宗教についてはこれまでも何度か書いたことがあるのですが、
ここでまたあらためて宗教のあり方について考えてみたいと思います。

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2016.5.3 Tuesday  
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