ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
 ヨガナンダ > スピリチュアル夜話 > 改心



ヨガナンダ



改心

今日は尊敬する宗教家で懇意にしていただいているA牧師と
食事をしながら話をさせていただく機会を持ちました。
A牧師と仮名にしたのは、
ここに書く内容が、もしかしたら特定の方に深い関わりがあるかもしれないからです。

A牧師は長年教誨師としての活動をしておられ、
死刑囚を含む重罪を犯した方の更正に尽力しておられます。

広島は市内中心部に刑務所と拘置所があり、
最近この二箇所とも大きなニュースの中で取り上げられることとなりました。


みなさんよくご存じのように、
この1月に中国人受刑者が広島刑務所から脱獄し、
全国ニュースとして大きく取り上げられ、
受刑者が捕まるまでの数日間、
上空はヘリコプターが飛び交い、至る所に警察官が経ち、
広島市内全域が物々しい雰囲気に包まれていました。
  <広島刑務所中国人受刑者脱獄事件 - Wikipedia>

A牧師は、受刑者が捕まった直後の1月末、
広島刑務所全職員の前で、教誨師としての講話を述べられたそうです。

教誨師は、A牧師のようなクリスチャンだけではなく、
仏教や神道、他の宗教関係の方もおられるとのことです。


今週の月曜日、2月20日、
13年にわたって続いていた光市母子殺害事件の犯人である元少年に対し、
最高裁が被告人の上告を破棄し、
事実上死刑判決が確定しました。
  <光市母子殺害事件 - Wikipedia>
この元少年が拘留されていたのが広島拘置所です。

この事件とその裁判を通し、
罪とは、命とは、その償いとは何なのかということを、
多くの人たちが考えたことと思います。

私もまたいろんなことを考えさせられました。
けれど死刑ということに対する私の考えは、
以前と変わることがありません。

世間一般の受け取り方として、
たとえ少年犯罪であったとしても厳罰化を望み、
また加害者の更正重視だけではなく、
被害者感情をよりくみ取るべきだという流れがあり、
私もそれに同意します。

命は最も尊いものであり、これに勝るものはありません。
だからこそ、その命を守るため、
死をもって罪の償いをするということもあり得ると考えます。

ひとつの命は単独で存在するのではありません。
すべての命は他の様々な命と深い関わりを持ち、
ひとつの命を守ることによって他の多くの命が傷付くということも十分にあり得ます。


昨日のニュースで、東京立川市のマンションで、
4歳の障がいを持つ子どもと母親が、
ともに部屋の中で餓死しているのが見つかったと報じていました。

社会的にほとんど無力で、
自力で生きていくことのできないその子どもさんの命は、
単独の命と捉えることができるかも知れません。

けれどもその子を扶養しなければならないお母さんの命は、
その子の生き死にととともにあり、
その子の生死をも決定づける二人分の命と捉えることもできます。

かように命とは、単純な足し算や引き算の上に成り立つものではない、
実に複雑な関係性を持ったものなのです。


私はA牧師に、教誨師としての立場から、
元少年の死刑判決をどう捉えられたのか伺いたいと思い、
まずはじめに先のような自分の考え方を述べた上で、
A牧師の話に耳を傾けました。

尊敬できる素晴しい宗教家であるA牧師は、
「どんな重い罪を犯した人間でも、深い愛情でもってその罪をともに背負い、
 心から悔い改めることを説いていったなら、必ず改心できる」
と話されました。

それはA牧師自らの体験から出た真実の言葉なのだと思います。
けれど、ならば一般論として、
今の刑務所は、その収容された囚人を更正させる
きちんとした教育システムがあるのですかとお伺いしたところ。
「それは残念ながらありません」
と答えられました。

たぶん今の刑務所の運営システムは、
現在の多くの公的機関がそうであるように、
硬直化した組織の中で、
改革とはほど遠い旧態依然とした運営が為されているのだと思われます。


A牧師はご自分が関わったある元死刑囚の話をしてくださいました。
その人は殺人の罪を問われ、
二十年近くにわたって裁判を繰返し、
その都度無罪と死刑判決を行ったり来たりしました。

そして長い裁判の末、
証拠不十分ということで無罪を勝ち取りました。

けれどその後、その人はA牧師の教会を訪れ、祭壇の前で、
「実は私が犯人なのです」
と涙ながらに罪を告白したそうです。


牧師という立場は、悔い改めようとする人の告白を聞き、
その告白に対し、神の代理人として許しを与えるのが役割です。
  (たぶんキリスト教的にはそうなのだと思います。
   もし間違っていれば申し訳ございません)

その人の心はそれで救われたのか、本当に改心したのか。
法律には時効があるものの、
被害者や被害者の関係者の感情に時効はありません。
それをどう受け止めればいいのか、一言では語ることのできない問題です。

A牧師は、目の前にいる人の心を神に近づけ、
罪を悔い改めさせ、安らぎを与えることを求めておられるのだと思います。

それは罪を犯した人に対してであると同時に、
罪を受けた人に対しても同じです。

数年前、広島県内で、白昼見知らぬ男が家に乗り込んできて、
いきなり刃物を振るい、十代の娘さんを惨殺するという事件がありました。
そしてその犯人はいまだ捕まっていません。

その娘さんのお父さんは犯人捜しに奔走し、
私もそのお父さんの語る事件についての話をお聞きしたことがあります。
その時A牧師は、
「罪を許すということはとても大切なことです。
 けれども私たちは、その犯人に対して『罪を許します』ということは言えません。
 その犯人に対し、殺された娘さんに成り代わって『罪を許します』と言えるのは、
 お父さんただ一人です」
とそのお父さんに向かって語りかけられました。

こんなことをお父さんの目の前で語ることができるのは、
深い体験を積んだA牧師ただ一人です。

その時のお父さんは、
その言葉を受け止める状態には至っておられないようでしたが、
その言葉はきっと忘れることがないでしょう。
そしてそれをいつか受け止められる日が来るかもしれません。
またもし来なかったとしても、
それをとがめることは誰にもできません。


私たちはみな元々深い罪を背負った人間です。
誰の心の中にもやましい部分は必ずあります。
そんな罪人である人間が、
人の罪を裁くのに深い葛藤を感じないはずがありません。

聖書にある「姦通の女」の話を、いつも胸に留めておきたいと思います。

イエスを試すために、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た。
律法では石打ちの死刑に値する。
イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言った。
これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。
また、イエスも女の罪を許した。


2012.2.24 Friday  
ひとつ前へ  ホームへ メニューへ 次へ
Link Free
Copyright 2010 Sakai Nobuo All right reserved.