ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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道筋<7>

これまでの人生を振り返ってみて、
たくさんの出会いから学びと導きをいただいたことを深く感謝しています。

私ほどたくさんの素晴らしい人との出会いに恵まれた人は
いないのではないかと思うのですが、
これは神因縁を持った者の特権かもしれません。
ありがたく思います。


日常の生き方、心の持ち方について最も多くの学びを与えてくれたのは、
私より二十歳ほど年上のSさんです。
Sさんと懇意にしていたのは今から十年から二十年ほど前で、
「母の愛」にも書いたように、16年前に母が亡くなった時も、
毎晩Sさんと電話をして、心に響くアドバイスをいただきました。

Sさんは小柄で明るく、一見どこにでもいるような普通の年配女性ですが、
常に自分の心に正直で、素直に感情を表現し、
そして前向きに真剣に生きておられ、
その結果として、常人の域を超えた鋭い洞察力や感性、
霊感を持っておられました。

人間は究極まで自分に正直に生き、自分を信頼し、
五感を研ぎ澄ませたなら、
必然として超人的な能力が身につくものだということを、
Sさんを通して知ることができました。


そのSさんが一貫して私に言い続けてくださったことが、
『自分に素直になりなさい』、『自分を愛しなさい』、
この二点です。

きわめて簡単な言葉で表現されたこの二つのことが、
当時の私にとって、雲の上までそそり立つ巨大な壁のように思えたものです。

のど元過ぎれば熱さ忘れる、過ぎ去ってみればすべてが自然で当たり前です。
当時、日々土木作業の底辺の現場で汗を流し、
休みの日には懸命に山に登り、
大きな葛藤を経ながら少しずつ自分の心を見つめていったのですが、
今となっては具体的なことはあまり覚えていません。

なぜなんでしょう、過去の記憶とはそんなものかもしれませんが、
それが何かを手に入れた記憶ではなく、
余分な感情や囚われを手放し、より自然な状態に戻っていった記憶なので、
よけいに薄らいでいくのかもしれません。

その間に気づいたもの、結果として知恵として形となって身に付いたもの、
それは大きく言うならば、
このホームページに書いていること、ほとんどすべてです。

もしSさんと出会うことがなかったら、
今の私はどんな生き方をしているのか、まったく想像すらできません。
たぶん大きな苦しみの中で人生を歩んでいるだろうと思います。

このホームページに書いている大部分のことは、
Sさんとの出会い、そこからの学びがなかったら、
まず間違いなく書くことはできませんでした。


そして今は、当時のSさんと同じように、
私もいろんな方から相談を受けることが多くなったのですが、
その方たちの悩みのほとんどが、以前の私のように、
自分に素直になることができない、自分を愛することができない、
これらのことに起因しています。

自分に素直になって自分を愛する、
本来きわめて簡単であるはずのこのことが、
ほとんどの現代人にとって乗り越えることのできない大きな壁となり、
苦しみを生み出しています。

私はSさんからいつも「ともに」という言葉で導かれてきました。
ですから今の私も、「ともに」という言葉を多くの人に返すよう心がけています。


今は物質的束縛から解き放たれ、
手放すということをキーワードだと説いている私ですが、
当時の私は、たくさんの知識とこだわりの塊のような人間でした。

ユーモアを理解するSさんは、そんな私をいつもにこやかに見守っていてくれました。
今こうやってキーボードを打っていて思います。
私に手放すことの大切さを最初に教えてくれたのは、やはりこのSさんです。

ある時Sさんは私に「無になることが大切だよ」と話してくださいました。
無になることが大切だということはよく耳にします。
けれども現代人にとって、また当時の私にとって、
何か新しいものを手に入れることは簡単でも、
手にしているものを手放し、無の状態に帰るということは、
とてつもなく難しいものです。

その時、私は冗談半分でこんなことを言いました。

「最近、無になるためのいいグッズが販売されたらしいよ。
 そのグッズを買ったら、無になりやすいらしいですよ♪」

「え〜、無になるためにもグッズが必要なん?
 そんなんおかしいんとちゃうん!?」

Sさんはその場で大笑いされました。


けどこんな笑い話のようなことが、
今でも、今だからこそ(?)身の回りにあふれているのではないでしょうか。

スピリチュアルの世界に関心を持っている人は日ごとに増え、
その多くの方が頭の中の知識としては、
断捨離などがブームになっているように、
手放すということ、そして自分を見つめ直すことの大切さを知っておられます。

けれどもそれがいざ実践となると、
何かパワーのあるグッズを必要としたり、
高額なセミナーで価値ある(!)話を聴こうとしたり、
外の世界に新たなものを求めようとされます。

本当は手放し、外への依存を脱却し、自分の内を見つめなければならないのに、
どうしても過去と同じ流れに乗り、
モノや外部への依存へと走ってしまうのです。


これはそういうふうに仕向ける方にも問題があります。
宗教が組織となると、まずその組織を維持しようとする力が働くのと同じように、
スピリチュアルな世界でも、人を導くことを職業としたり、
法人なりの組織を作ってしまうと、
意識、無意識に関わらず、
人をその組織や教えへ依存させるような方向に力が働くものです。

これまでの時代の金属の理と水の理はまったく対極的な存在であり、
そこでこういった葛藤が生じるのは自然なことです。
その中でどういったことを学び、どういった方向に進んでいくか、
肉体を持った私たちにとって大きな課題であり学びの場です。

スピリチュアルな世界のリーダーとなるべき人、
特にそれを職業として生活を維持しようとする人は、
このことをしっかりと理解し、克服していかなければ、
本当の意味で人を自立した幸福な道へと導くことはできません。
そしてその人自身にも魔が差す危険が大きいということを知るべきです。

また導かれていく方の立場の人も、
ただ単に不思議なパワーやカリスマ的魅力に惹かれるのではなく、
常に自分というものをしっかりと持っていなければなりません。
それが自分に素直になり、自分を愛するということです。


自分に素直になり、自分を愛するよりも、
外部の権威あるものに従い、価値観を依存し、盲信する方が、
私たち現代人にとっては楽なことです。

たとえばかってのオウム真理教のように、
外部から与えられた明確な段階的プログラムを忠実にこなし、
それをワンステップずつ昇っていくことこそが真理に至る道であると示されれば、
幼い頃から周りとの競走に勝ち抜くことを主眼とし、
知識というものに過大な価値を見出してきた偏差値秀才たちが心惹かれたのは
当然です。

そこで受験勉強を黙々とこなすように、
「修行」というプログラムを積み重ねていく中で、
少しずつ価値観を外部に依存するようになり、正常な判断力を失い、
恐ろしい事件を引き起こすまでに至ったのでしょう。

これは極端な例ですが、
これに類する危険性が、多くのスピリチュアルな組織の中にあるのを感じます。

カルト教団、カルト集団のカルトとは、狂信的という意味です。
狂ったように信じ込むその対象とは、自分の外にある教えや価値観です。
信じるものが外にあるから正常な判断力をなくしてしまい、
それが道から外れても、歯止めをかけることができなくなります。

スピリチュアルな世界の真の目的は、
一人一人が自己の輝きを見つけ出すことであり、
自分を愛し、自立できる人間を育てることにあるはずです。
けれども組織ができ、それを職業とする人が導こうとすると、
その本来の目的と逆行する動きがでることもあります。
そしてそれを心地いいと感じる人がいることもまた事実です。

人間が生きる上で最も大切な能力は判断力です。
自分で感じ、自分で学ぶから尊いのです。


日本でも古くからの職人の世界は、
師匠が弟子に手取り足取り技術を教えることはありませんでした。
基本的な訓練を徹底的に積ませ、
技は自分から盗み取るように学び、感じ取らせたのです。

またその道は平坦なものではありません。
何事も楽で効率的なものばかりを追い求めていては、
真に価値ある学びを得ることはできません。

法隆寺や薬師寺の再建を手がけた有名な宮大工 故西岡常一氏は、
宮大工の師匠である祖父から、
「宮大工とは木だ。
 木を育てるのは土だ、土の気持ちが分からなくてどうする」
と言われ、工業高校ではなく農業高校へと進みました。



木を扱うために土を学ぶ、
すべてはその源を知らなければ、本質を理解することはできない。

この言葉を深く受け止めたいと思います。

『回り道は、けして遠回りではない』


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2011.10.2 Sunday  
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