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ヒロシマ・アーカイブ

今日インターネットのニュースサイトを見ていて、
被爆当時の広島の状況や被爆者の声を語り継ぐ「ヒロシマ・アーカイブ」
というサイトができていると知り、とても驚きました。


ネットで語り継ぐヒロシマ原爆の記憶

TBS系(JNN) 8月8日(月)19時24分配信

 今年2月、東京・六本木の美術館の一角に人垣が出来ていました。彼らが見ているのは、「ナガサキ・アーカイブ」。「アーカイブ」というのは、「記録の保管庫」という意味です。これはインターネット上につくられた長崎原爆の写真や証言の記録です。

 証言者の顔写真が被爆した場所に設置され、誰がどこで被爆したのか、一目でわかる仕組みになっています。制作したのは、首都大学東京の学生たちです。原爆投下から60年以上経って、被爆体験の新たな伝承の手段として使われたのがインターネットでした。

 このナガサキ・アーカイブのヒロシマ版をつくれないか。広島の被爆関係者の要請で、ヒロシマ・アーカイブの制作が始まりました。まずは証言集め。広島女学院の生徒の協力で行われました。

 「私は奇跡的に生き残りましたけど、私の妹は死にました」(被爆した細川浩史さん)

 原爆資料館から写真約150点も提供されました。3月9日には首都大学東京の制作メンバーも決定。本格的な作業に取り組もうとした矢先にそれは起こりました。

 3月11日、東日本大震災が発生。首都大学東京の学生で一児の母でもある原田真喜子さん(24)は、仙台で1歳の子供とともに被災しました。

 「(自分も)全てを誰かに話すことができなくて、思い出すのもつらい経験をしました。後世に伝えることが本当にデリケートなことなんだと、今回被災を経験して思った」(ヒロシマ・アーカイブを制作する原田真喜子さん)

 「悲惨な体験を伝えることは難しい」。そう思った原田さんは当初、ヒロシマ・アーカイブの制作に関わることは考えられなかったといいます。さらに、インターネットという手段についても疑問を持ち始めました。

 「東京で友達が『コンビニにパンがねえよ』とか、『マック行きたい』とか書かれたときに、インターネットって何なんだろうと思って・・・」(原田真喜子さん)

 水1杯にも困る避難所で過ごす中、インターネットに書き込まれる内容はいわば「ぜいたくなもの」でした。インターネットに対する不信感が募っていきました。震災から2か月後、原田さんは心に悩みを抱えたまま、広島に向かいました。

 被爆者の証言を集めてくれた女子高生から言われたのが、
 「(原爆の)資料館に来るならそれなりに知識を知っててほしい 。それから来てほしい」(広島女学院高の生徒)
 「平和公園を以前から公園だと 思っている人が多くいる。ここは公園じゃなかったのに・・・」(広島女学院高の生徒)
 「私は知らなかった人間の1人で・・・」(原田真喜子さん)

 広島の原爆についてまだ正しく理解されていないことがたくさんあると語る地元の女子高生たち。原田さんは、伝えていくことの大切さに気づきます。

 「壊滅的な被害を受けた広島の復興を伝えることが被災地の希望になるかもしれない」と、新たな意義も見出しました。そして先月、ヒロシマ・アーカイブは完成しました。インターネット上に広がる現在の広島の街に、66年前の写真が組み込まれます。果たしてこれを若い世代はどう見るのでしょうか。

 原爆の被害の実態をネット上に記録したヒロシマ・アーカイブ。先週金曜日、広島の高校でデモンストレーションが行われました。果たして若い世代はこれをどう見るのでしょうか。

 「みんなコンピューターとか持ってるし、身近に感じて昔の人の話を聞けて良いと思う」(ヒロシマ・アーカイブを見た高校生)

 「(アーカイブの記録を)僕らが理解して、世界の知らない人たちに発信していけるよう努力が必要だと思う」(ヒロシマ・アーカイブを見た高校生)

 「インターネット」という手段で語り継がれる戦禍の記憶。今後、これをどう生かしていくのかは、若い世代にかかっています。(08日18:11)



<Hiroshima Archive|ヒロシマ・アーカイブ>




広島の平和公園には、
原爆にまつわる様々な資料を収めた広島平和記念資料館とともに、
被爆者の資料や体験談を紹介する国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
があります。

資料館は有名で多くの人が訪れるものの、
無料で様々な貴重な被爆資料を閲覧できる平和祈念館の方は、
建物が半地下構造になっていて分かりにくいせいもあり、
足を運ぶ人の数は限られています。
  (つい最近それを反省し、資料館の正面入り口に、
   平和祈念館の大きな案内板が設置されました)

平和祈念館ではたくさんの被爆者に関する本や資料とともに、
被爆者の生の声を収録した動画を見ることができます。

何百名という数の被爆された方たちの声はとても貴重なもので、
資料館に展示されている数々の被爆資料に勝る大きな力で、
私たち聴く人の心に平和の尊さを強く訴えかけてきます。

けれども残念ながら平和祈念館に行き、その声を聴く人は限られています。
また平和祈念館にまで行ったとしても、
その膨大な数の証言すべてを一度に耳にすることはできません。

こんな貴重な平和の資料を埋もれさせておくのはもったいない、
そう考えた私は、知り合いから紹介してもらって平和祈念館の職員の方と面談し、
是非この貴重な被爆を体験された方たちの生の声を、
インターネットで世界中の方たちに聴いてもらうことができるようにして欲しいと
お願いしました。

また面識のある県会議員の先生にもお願いしたところ、
その先生は私の考え方にとても同意してくださり、
広島平和文化センターのスティーブ・リーパ理事長や
秋葉忠利広島市長(当時)に話をし、
是非それを実現させたいという話になったということを聞きました。

けれども私はその後その県会議員の方とお会いする機会もなくなり、
その後どうなったかは分からないまま、数年経ってしまいました。
そのことはこのホームページでも以前に書いたことがあると思います。


そして今日、ネットにニュースでヒロシマ・アーカイブのことを知り、
私が働きかけていたのとはまた別の方向で、
被爆体験のネット配信ができたことをとても嬉しく思いました。

けれどもここで語られている被爆証言は、
平和祈念館に収められている被爆証言とはまた別のもののようです。
この数年間、働ききがけを休止していた己の怠慢を反省し、
再度平和祈念館にその後の状況を確認してみようと思います。


世界で初めて一般市民の上に原子爆弾が投下されたヒロシマは、
原爆という兵器の悲惨さ、戦争の愚かしさを世界中に伝える責務があります。

そしてそれと同時に、
廃墟と化した街をほんの数十年間で奇跡の如く復興させた
輝くような歴史を持っています。

今後復興していくであろう東北、フクシマも同様ですが、
ヒロシマ、ナガサキの復興の歴史は、
地域紛争や災害で被害を受けた世界中の多くの国や地域の人たちにとって、
明るい明日を夢見るための希望の星であり、
その復興の歴史は、きちんと資料として提示する方法を考えるべきだと思います。

この復興の歴史を示すこともヒロシマの大きな役割のひとつです。

それともうひとつは、明日への平和についての提言です。
これまでの時代は戦争のないことが平和でした。
けれど地球環境が破壊し尽くされ、大きな災害や天変地異が多発し、
いつ私たちの生命に危機が訪れるか分からないような今の状況においては、
平和とは戦争のないということだけではなく、
人類みんなが安心して暮らせる社会や生活環境を築いていくことが、
新しい時代の真の平和であると考えます。

この未来社会への提言も、ヒロシマが行っていくべきだと考えます。


原爆、戦争の愚かしさ、復興への道筋、平和な未来社会への提言、
この三つのことを世界にアピールすることが、
ヒロシマの大きな役割だと以前から考えていたのですが、
一昨日、広島原爆記念日の8月6日、
たまたま平和公園にいたところを地元中国新聞の記者の方からインタビューを受け、
このことを熱く語り、再びその思いを強くしました。

一昨日66回目の原爆記念日を迎え、
私にもひとつの時が来たのかもしれません。

平和とは、一人一人の思いが形作って成り立つものです。
私も私なりに、自分にできる限りの力で、平和運動を続けていきます。

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2011.8.8 Monday  
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