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命からの発想<2>

罪を知るとは他人事ではありません。

原発利権に絡む多くの人たちが犯した罪は、
きわめて大きなものです。

アメリカの911テロが政府の自作自演の陰謀だったという真実が、
多くの人たちに知れ渡ったように、
おそらくこの社会の隅々にまで行き渡っているであろう大きな罪は、
今という天の岩戸開きの時を得て、
一気に明らかになってくるでしょう。

まずは私たちはその罪を知り、
そして罪を知った上で贖罪し、
同じ過ちを二度と繰り返さないようにしなければなりません。


罪を知るということは、
その罪となるひとつひとつの出来事を明らかにすること、
そしてそれに対して糾弾するということだけではありません。

本当の罪を知るということは、
その罪が生まれた背景を含めたすべてを理解するということです。

ひとつの体制や価値観が時代の中で役割を終え、
疲弊した状態で幕を閉じようとしている時、
内部には多くの矛盾や欺瞞がはびこり、
大きな罪が生まれる温床となります。

原発利権に群がる者たちの犯した罪は大きなものであったとしても、
それが生まれる条件が、彼らのいる環境の中にあったと言えなくもありません。

すべてを時代のせいとするのは無責任のようですが、
今この時、
何らかの形でそういったものが現われてくるのは致し方のないことです。

彼らが深い罪人だと非難するのはたやすいことですが、
もし自分たちが彼らと同じ環境に置かれていたとして、
「自分はかれらと同じ過ちは犯さない」
と断言できる人がはたして何人いるでしょうか。

私は心の弱い人間です。
彼らと同じ立場にいて、長い年月利権にまみれ、
それに応じた「豊かな」暮らしを続けていたとしたら、
その今までの生活を捨ててまで、
一人反旗を翻せるという確実な自信はありません。

罪を生み出す心の種は誰しもが胸の奥に抱えています。
私は自分の胸の中にそれを見ることができます。

ヨハネによる福音書の「姦淫した女」には、
イエスが「罪を犯したことのない者だけがこの女を石で打て」と語ったところ、
だれも女に石を投げることができなかったと書かれています。

私たちはみな何らかの罪を犯した経験があります。
また大きな罪をも犯す可能性を秘めています。
罪を知るとは、まずそのことを知ることです。

そしてその上で罪を犯した人たちの立場や心情を理解するということ、
これができなければ、人を非難することはできても、
その人を改悛させたり、問題を根本から解決することはできません。

「あの人はなぜあんなひどいことをしたのか、私には理解できない」
などということがよく言われますが、
これは自慢できることではありません。

その人の起した行為の大元を知り、それが理解できなければ、
いつまで経ってもその人とは対立関係を維持したままです。


インドの聖人マハトマ・ガンジーは、

世界の不幸や誤解の四分の三は、
敵の懐に入り、彼らの立場を理解したら消え去るであろう。


と語っています。



開祖藤井日達聖人とともにガンジーを崇拝する日本山妙法寺のお上人さんたちは、
相手と直接会った時も、電話で話をする時も、
必ず最初に南無妙法蓮華経を唱え、相手の心の中の仏性に手を合わせます。

罪を知るということは、相手だけではなく自分の中にも潜む罪を知るということであり、
また相手にも自分にも、どんな極悪人と思えるような人にでも、
心の中に光り輝く仏性の存在を見るということにも通じます。


これは人や物事を最も深い根本から見つめるということであり、
抽象的な言葉ではありますが、
私はこのことを「命からの発想」というふうに考えています。

命ほど尊いもの、根本はありません。
これを実践していくのは、きわめてシンプルではありますが、厳しいものです。


この時空すべてのものに命があります。
原発の放射能被害によって住み慣れた土地を追われた人たち、
これからどのような深刻な放射能の影響が出るであろうか分からない
福島県の子どもたち、赤ちゃん、
みなそれぞれ素晴らしい命を持っています。

そしてそれと同時に、原発事故で加害者となった東電関係者、保安院、
こういった非難されるべき人たちにもまた命があります。

今巨大な旧来の価値観が崩壊しようとしています。
その流れを生み出した歴史の生命リズム、
そこから生じた利権、利権にまみれた資本主義、その体制、
形あるものないもの、すべてのものに命が宿っているのです。


私たちの社会を一本の木に例えると、
その根元は腐り、ぐらつき始めています。
枝の先に実った果実は、落果して壊れてしまうかもしれません。

今私たちがやらなければならないのは、
ひとつひとつの果実を守ることと同時に、
ぐらついた根本という基盤を新たな強固なものへと作り替えていくことです。

腐った根本は、その腐敗ぶりを非難するだけでは元の状態には戻りません。
私たちみんながその部分に手を差し伸べ、
ともに腐った根本を支え合うことが求められています。

そしてその思いが、
腐った根本に再び命を蘇らせることにつながるのだと信じています。

それが罪を犯した人たちへの共感であり、
すべての人、ものに仏性を見るということなのだと思います。


原発事故により私たちの生活、生命が危機にさらされているように、
仏性を見るということは、
時によっては命すら投げ出す覚悟を求められることがあります。

私を南インドに導いてくださった日本山妙法寺の石谷政雄上人は、
過去テロリストの銃弾が飛び交うスリランカで、
命を捨てる覚悟で平和行進に挑んでいました。

そして実際に何度も死の危機に直面したものの、
開祖からのインド布教の指令が下り、
現在のインドでの活動へとつながっています。

そしてその時に石谷上人の代わりにスリランカに渡り、
平和行進を引き継いだ横塚上人は、歩きはじめて10日目に、
32歳という若さでテロリストの凶弾に倒れました。

脳天を真上からぶち抜かれた横塚上人は、
たぶんマシンガンを構えたテロリストに対しても、
頭を深く下げ、団扇太鼓を叩きながらお題目を唱えていたものと思われます。


これは極端な例かもしれませんが、
相手の非を見つけ批難することは簡単でも、
相手をゆるし、共感し、理解するには、大きな勇気と行動が求められます。

けれども今はそれが最も大切なことなのです。

スピリチュアルな世界では、これからは心の時代、命の時代とよく言われますが、
その意味を深く吟味すると、
私たち自身をとてつもなく深いところから見つめなければならず、
けっしてきれい事だけですまされるものではありません。

あの世を描いた絵の中では、蓮の花がよく描かれています。
臨死体験をした複数の人の話によると、
あの世の自分の足元には実際に蓮の花が咲いているのだそうです。

種子として何千年もの命を保ち、
泥池の中でも美しい花を咲かす蓮は、
この世とあの世を表す象徴のようなものかもしれません。

身の回りの世界も、自分の心の中も、
実際は泥池のような混濁したものなのかもしれません、
そしてそれを知った上で、
蓮のような美しい花を咲かせることは可能です。

求められるのは清ではなく浄、
争い葛藤した後に得られる水で浄化された浄なる世界、
「命からの発想」とは、こんなところから生まれてくるものです。

2011.5.28 Saturday  
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