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情動

あまり長い間更新をしないと、
このホームページの存在を忘れられてしまうのではないかと
感じている今日この頃です。

ここ数日とても忙しくしていて、
目の前にそびえる「心の壁」を乗り越えるべく、
自己との闘いを強いられる日々でした。

人によって物事の受け止め方は様々です。
ある人にとっては簡単にできることでも、
人によってはそれをするのに相応の決断と努力を求められることがあります。

たとえば掃除などがいい例ですね。
きれい好きの人は、いつもいとも簡単に部屋を整った状態に保っています。
ところが掃除が苦手な人にとっては、
掃除をするのは苦行のようなもので、
「やらなければ」と考えただけで頭を抱えてしまいます。

以前の私がそうでした。
いつも部屋の中は足の踏み場もない状態で、
何度床の上のものを踏みつけて壊したか数えきれません。

片付ければ心地よく生活できるということは分かっていても、
体が拒否するのですらどうしようもありません。


ここ数日、やらなければならないにも関わらず、
長年保留にしていたあることに取り組んでいます。

それをするのは嫌いではありません。
どちらかと言えば好きな方です。
また本来得意分野のことでもあり、
真剣に取り組めば、人よりも早くやり遂げられる自信があります。
けれど長年手を付けることができなかったのです ・・・ 。

これは私にとって乗り越えなければならない「心の壁」です。
これを乗り越えようと努力する中で、
いろんなことに気づかせてもらいました。

気づいたといってもそれは当たり前のことなのです。
本当は気づいたのではなく、
再認識、再確認したということです。


人には簡単にできるのに、自分にはなかなかできないこと、
誰とでもにこやかに話をする、
自分にとっていいと思える習慣を毎日実行する、
何かの勉強に取り組む、・・・
テーマはなんでもいいのですが、
それができない理由を考えた時、
普通はそれが苦手である、あるいはそういったことに対する能力、適正がない、
そんなことが頭に浮かんでくるでしょう。

もちろんそういったこともあるでしょうが、人間の行動は、
そんな表面的な思考のみで左右されているのではありません。
もっと深い、感情の奥に潜む、突きあげてくるような情動とでも呼べるものに、
行動を律せられる部分が大きいのです。

このたび、自分が好きで得意なこと、
しかも長年手を付けることのできなかったものと取り組み、
その情動とも呼べる、ある意味 “化け物” のようなものと向かい合い、
その性質を以前より深く理解できるようになりました。

「思い」というものを表面から順に見ていくと、
善悪、正誤、損得、そういったもので判断する思考があり、
その下に喜怒哀楽といった感情があり、
またその奥に情動、あるいは生理といってもいいかもしれません、
そんな根源的な行動欲求があるのを感じます。


情動というのは厄介です。
好きなことで得意でもあり、
また実行することが自分にとって役立つことだと頭で判断しても、
なかなか実行できないことがあります。
それとは逆に、それをすることが誰にとってもマイナスで、
かつ自分も本当はやりたくないにも関わらず、
どうしてもそれに対して体が動いてしまうとことがあります。

突発的な犯罪を犯す人などは、
頭で犯行を思い立ったのではなく、
内側から突きあげてくる情動にかられ、
犯行に走ってしまったのだと思われます。

「キレる」人は、その情動を体全体でコントロールすることができず、
頭だけで即行動に移してしまうから、破滅的結果を導きます。

体からわき上がってきた情動は、
体全体を使って「思考」し、
深い判断に基づき、またしっかりと肚(はら)に収めた上で、
行動へと移していかなければなりません。

けれども情動は人間誰しもが持つものであり、
けっして悪いものではありません。
子どもはこの情動の部分が大きいですね。
理屈を超えた世界で思うがままに生きています。

芸術家の岡本太郎は、
「芸術は爆発だ!」と叫んでいました。
あの天才岡本太郎のほとばしる芸術的才能、情熱は、
まさに直感であり情動なのでしょう。


この情動を頭で押さえ込むことは不可能です。
人間の判断基準の中では、情動は理論、理屈の上位にあり、
これを大人の論理や常識といったもので抑えようとすると、
胸の中に感情の渦がわき上がってきてしまいます。

情動は感情となってわき上がってくるのですから、
感情をコントロールすることによって、
情動の動きを抑えることができます。

私はここ数日、「やりたくな〜い!」という激しい情動を感じ続けてきましたが、
以前よりは冷静にそれを見つめ、コントロールできる自分を発見しました。

それはひとつは、トイレ掃除で培った心の安定のお陰でしょう。
人間の心の中にわき上がってくる思いはいろいろあります。
いろいろあって当たり前、
まずはそれをしっかりと見つめることからスタートします。
そのためにも、まずは心落ち着けた自分であることが大切です。

そのわき上がってきた感情を見つけたら、
次にはそれをうまくコントロールしていくことが必要です。
そのためにはセドナメソッドのような、
「感情を手放す」テクニックが重宝します。

「感情というのは手放すことのできるものなのだ」
このことを一度体で感じたら、
それ以降は、多少感情が揺れ動くことがあっても、
その感情の波紋が大きく広がっていくことを防いでくれます。


極端に言うならば、人間の行動は頭の表面の理論で決められるのではなく、
心の奥のもっと深い部分に律せられていて、
理論、理屈といったものは、
その行動が正しいということを後で理由づけするものに過ぎません。

後催眠暗示というものがあります。
被験者に催眠をかけ、催眠が覚めた後、
ある条件で特定の行動を取るように暗示をかけます。

たとえば「正午になったら犬のように床の上を這い回る」と暗示をかけると、
実際に12時になると、突然そのような行動を取り始めます。
けれども催眠をかけられている被験者はそのことを知らず、
自分が催眠によってそのような行動を取っているとは思っていません。

床の上を這い回っている被験者に、
「あなたはなぜ犬のように床の上で四つん這いになっているのですか?」
と聞くと、その被験者は、
何か下に落ちているような気がしたから ・・・ 、
足元が急に気になったから ・・・ 、
などと自分の行動をちゃんとした理由に基づいたものだと主張するのです。

私たちの日常の行動は、
その大部分がこういったものかもしれません。
自分では、「自分の考えていることこそが真っ当で正しいことだ」
と感じていても、本当は、
自己の情動によってのみ動いているのかもしれません。

またそう思う方が、より謙虚に、冷静に自己を見つめることができるでしょう。


このたびの「心の壁」を乗り越える経験をし、
ここ二、三年大きなテーマとして取り組んできた「心磨き」、「感情の解放」は、
やはり大きな成果があったことを感じました。

情動は潜在意識の一部です。
あるいは潜在意識そのものかもしれません。

ですからその情動との付き合い方は、
禅で説かれる十牛図がとても参考になります。
  <十牛図 - Google 検索>  <十牛図 - Wikipedia>

まずは自己を突き動かす情動というものの存在を知り、
それを上手にコントロールする術を会得し、
最後にはそれと仲良くなり、その存在を忘れ、
自然の姿に戻ることが理想です。

日々「やりたくな〜い!」という情動を闘っている私は、
まだまだ最後の段階にはほど遠いのですが、
情動という牛さんとともに、一歩ずつ牛歩のごとく進んでいくつもりです。

牛に引かれてなんとか参り、といった感じでね。

2011.5.19 Thurseday  
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