ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
 ヨガナンダ > スピリチュアル夜話 > 言葉の重み



ヨガナンダ



言葉の重み

言葉は文字としての情報だけではなく、
それを発した人の深い生き様をも反映させる重みを持ったものだということを
最近強く感じるようになりました。

またいくら重みのある言葉でも、
それを受けとる方にそれを感じ取る力がなければ、
右の耳から左の耳へと素通りしてしまいます。

昔アンダーラインを引きながら読んだ本を再び読み返すと、
以前とはまったく違うところに心がひかれ、驚くことがよくあります。

言葉には命がこもっていると思いますが、
その命とは、言葉を発する方、受け取る方、双方で培うものでしょう。


「可能性」「楽しい人生」でご紹介した両腕のないピアニスト、
劉偉さんの動画を繰り返し見ています。



彼の奏でるピアノや言葉は、耳にするたびに胸に深く響いてきます。

先のページにも載せた
僕の人生には道が二つあるんです。
さっさと死ぬか、一生懸命生きるか。


この彼の言葉は、今の私に最も必要なものだと感じます。

そしてこれは今年の春にインドに行き、日本に帰ってきた時に感じた
インドの人たちと日本人との生き方の違いと同じなのだということに気がつきました。

日々瞳を輝かせて生きているインド人たち、ゾンビのような日本人、
けれどその時気がついたけれども、その気がついたことを、
今の自分の生き方に反映することができていないということも
また同時に気がつきました。

言葉の重みは、それに気づけることが大事ですが、
その気づいたことを活かせるようにすることはより一層大切です。

劉偉さんはこんなことも言っています。
母は「立派になれ」とは言いません。
「元気でいてね」とは言われます。
でも僕は何事も “家族のため” と思って一生懸命やります。


この言葉に安っぽいコメントは付けたくないですね。
深い真理です。


あるスピリチュアル系のブログを更新されるたびに読んでいます。
先日そこに書かれていることに共感できたので、
ブログの末尾に貼られたあるブログランキングのバナーをクリックしました。

そのブログは「哲学・思想ランキング」の6位になっていて、
これより上のランキングのブログってどんな内容なんだろう ・・・ と思い、
1位のブログをクリックして内容を読んでみました。

そのブログは、私個人の感想としては、
とても多くの人の心を引きつけるものだとは思えず、
疑問を感じつつ、
今度はその人が出しているらしい本のAmazonのバナーをクリックしました。

その本には7名の方のカスタマーレビューがついていて、
評価は、星5つが6名、星4つが1名と、とても高評価です。

やはりこれも直感的に怪しいと感じたので、
そのレビューをつけているユーザーたちが、
他にどんなレビューを書いているのか調べてみました。

すると予想通り、7名全員が、
レビューを書いているのはその本だけだということが分かりました。

これでもっとこれらレビューがすべて “やらせ” であると断言することはできませんが、
評価というものは、いくら数字やランク上でのごまかしをしたとしても、
その裏に虚像が隠れている場合、
綴られた言葉の中からどうしても漏れ伝わってくるものです。

少し前に2ちゃんねるの管理人ひろゆき氏が語った有名な言葉を思い出しました。

ひろゆき氏


かく言う私も、今自分自身の言葉の重みということで、頭を悩ませています。

今のような生き方で、
本当に重みのある言葉を書くことができるのであろうか、
今の状態は、実社会の生き方よりも、
理屈である言葉の方が先行してしまっているのではないだろうか、ということです。

私はこうやって文書を書き、ネットで発信し、
多くの方に読んでいただくことが楽しみであり、
また天命をまっとうするひとつの手段だと考えているのですが、
このままだとどうもアンバランスなような気が最近強くしてきました。

行動と理論はバランス関係で、ふたつの調和が大切ですが、
もしどちらかが先行するとすれば、
行動という根っこの部分が先に来ることが望ましいのですが、
今私に求められているのはそのことです。


そう考えていた矢先、
すさまじい行動力ですべての道を切り開いてきた方から、
深い話を聞かせていただく機会がありました。

最近とても懇意にしていただいている人生の先輩なのですが、
表の世界での成功とともに、裏の世界も精通している方で、
その思いから発する行動力は、私と対極の面を持たれていて、
今の私が身に付けたい生きる姿を体現している方とも言えます。
またそうであるから、最近急速に懇意になったのだと思います。

裏の世界のことは抽象的にぼかしたとしても、
ここではほとんどまったく書くことができないのですが、
世の中には映画や小説のドラマよりも、
はるかにすさまじい生き方をしている人がいるのだということを知りました。

そのドラマを演じる原動力となっているものは、
何ものをも恐れぬ一途さであり行動力です。
相手がたとえ警察であろうと暴力団であろうと、
また大企業の社長であろうと有名人であろうと、
自らの死をも恐れぬ猛突進で相手にぶつかっていけば、
必ずいつかは道が拓けてくるということを、
その人は自らの生き様を通して語ってくださいました。

こんなことをしてきて、よく今まで命が無事であったものだ ・・・ 、
と思うようなことばかりなのですが、
道はまったく違えども、同じく命がけで神仏の道を歩んできた
クリスチャンの小野春子さん、インドの日本山妙法寺の石谷政雄上人さんたちと、
同じ種類の清々しさを感じます。

最近の私の心の中では、
善悪というものを超越した生命観、
そしてそれをいかに光輝かせるか、
さらにはその可能性を追い求める生き方とは何なのか、
というものがテーマなのですが、
それについての大きなヒントと導きを、その方は私に伝えてくださっています。


実際に道は違っても、悟るところは実に共通しています。

その方が十代で初めて少年院に入った直後、
お父さんが亡くなられたという電報を受けとり、
教誨師であるお坊さんに三日間の内観をするよう指導されます。

それが少年院の規則だったそうですが、
その方は指導員の方に頼み、
三日のところを延長し、一週間内観してお父さんのことを思い続けたそうです。

そして今も事業で行き詰まった時は、
その事業をことを思い、じっと目を閉じ内観をするのだそうです。


私は最近このホームページで、
「今この瞬間を生きる」ということを書いていますが、
その方の生き方は、まさにそれをリアルに体現したものです。

事業をする時はそれに集中し、
警官や暴力団と命がけで立ち向かう時は、
今この時に集中し、後先のことなどまったく考えないでしょう。
こんなことをしたら後でどうなるだろう ・・・ などと考えたら、
そんなことは絶対にできませんから。
  (具体的なことを書けず申し訳ございません)


その方の言葉は当然ものずごい重みがあります。
言葉イコール生き様であり、
生き様そのものが命を100%燃やしたリアルな世界なのですから、
言葉に重みとパワーがこもるのは当然でしょう。

けれどもその言葉の重みはその人自身のものであり、
その重みのある言葉も、自分の中で活かせなければ何の価値もなく、
「自分にとって重みがある言葉だ」とは言えないのです。


言葉も、行動も、考え方も、すべての主体はやはり自分自身です。
人生をよりよく生きる道具として、言葉を使っていきたいものです。

2010.12.2 Thurseday  
ひとつ前へ  ホームへ メニューへ 次へ
Link Free
Copyright 2010 Sakai Nobuo All right reserved.