ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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純真

昔から動物は好きでしたが、家で犬や猫を飼ったことはありません。

けど本当はたった一回だけ、小学校に上がるか上がらないかの頃、
(たぶん)拾ってきた野良犬を、一日か二日だけ家においていた記憶があります。

近所の犬好きのおばさんの
「犬は首輪をしなくても逃げていかないよ」
という言葉を信じ、首輪をせずに放していたら、
すぐに逃げていってしまいました。

幼い頃のことで記憶があやふやなのですが、
その犬が逃げた直後は何日間か、
学校から帰るとすぐに近所を犬を探して歩き回ったことは覚えています。


その犬好きのおばさん夫婦には子どもがおらず、
私のことを我が子のように可愛がってくれました。

そこの家にはいつも雑種の犬がいて、
一時は二匹いっぺんに飼っておられたこともあります。

犬が二匹いた時、おばちゃんの家に行き、
玄関先で気に入っていつも可愛いがっている方の犬の頭をなでていました。
その横ではもう一匹の犬がじっと私とその犬の様子を見ていました。

何日か後にそのおばちゃんの家に行くと、
可愛がらなかった方の犬が病気で亡くなったということを聞かされました。

当時私はまだ5歳か6歳だったと思いますが、
幼いながらも可愛がらずに死んでいってしまったその犬に対して
激しい罪悪感と後悔を感じました。

もう一匹の犬を可愛がっていた時のあの犬は、
私がその犬と戯れている姿をどんな思いで見ていたのでしょう。

今でもそのことを思い出すと胸が苦しくなります。


最近街角で飼い主を引っ張ってチョコチョコ歩いている犬の姿を見ると、
無性に愛しさを感じます。

見るものすべてに興味を示し、
頭をせわしなく左右に振りながら鼻をクンクンいわせ、
つぶらな瞳で身の回りの動くものを懸命に追いかけています。

飼い主の与えるえさや水をただ無心に食べたり飲んだりし、
その一途さは、まさに生命の輝きに満ちています。

犬、あるいはペットというものは、
なんであんなにも可愛らしいのでしょう。

そんなことを分析してもはじまらないのですが、
きっと懸命に今を生きようとしている姿、
飼い主に対して純粋な心で信頼を寄せている姿に心打たれるのだと思います。


セドナメソッド「人生を変える一番シンプルな方法」の中に、
「平安」ということについてこんな文章が書かれています。

 平安を感じている時、私たちは「私はここにいる。完全で、完成していて、すべてである。あらゆる人も物も自分の一部だ。すべては完璧だ」と感じます。頭の中は澄んでいて空っぽですが、完全に覚醒しています。イメージや思考は不要です。人生はあるがままで、すべてがうまくいっています。
 私の編集者のステファニーは、友人の生後六週間の赤ん坊を抱いたときに、平安や一体感を感じたと語ってくれました。赤ん坊が無邪気に彼女の胸に寄り添ってきたとき、ステファニーは赤ん坊の彼女に対する信頼を心から感じ、自分が抱いていた期待や心配を完全に解放しました。未来の計画をするのでもなく、過去を思い悩むのでもなく、ただこの子と一緒に、「今」にいたのでした。愛することと愛されることとの間に何の障害もなかったのです。必要なのも心でした。平安のために、彼女はただそこにいればよかったのです。



犬や猫という可愛いペットたちも、生まれて間もない赤ちゃんも、
その可愛らしさと純真さといった点で共通しています。

赤ちゃんやペットに可愛らしさを感じ、そこに平安を覚えるのは、
そこに純真な心があるからです。

純真な心とは、相手、周りに対する100%の信頼であり、
今を懸命に生きる姿です。

私たちは誰でも、そのような姿に返りたいと願い、
また返れるということを知っているのでしょう。
だからこそペットを愛し、
赤ちゃんの笑顔に限りない安らぎを覚えるのだと思います。


可愛い動物たちは、写真を見ているだけでも心癒されます。
パソコンにそんな動物たちの写真を集めていたのですが、
ここ一年ほどその写真が行方不明になっていました。

ところが今日たまたま外付けHDDの中を整理していたら、
そこに収められている「動物フォルダ」を発見しました。

ここに少しだけ私のコレクションを公開いたします。
心癒し、純真な心を取り戻す一助にしてください。





























まだまだあるのですが、このへんで。 (v^-゜)

2010.10.8 Friday  
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