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利他的な愛

「情けは人のためならず」
  情けを人にかけておけば、巡り巡って自分によい報いが来るということ。
  〔補説〕 近年、誤って本人の自立のために良くないと理解されることがある。


宇宙の森羅万象は繋がっていて、
身の回りで起こるすべてのことには意味があるのですから、
ひとつひとつの行為を、これは自分のため、これは人のため、
と区別することは本来不可能です。

「人のため」に何かをがんばってする人は、
それがその人にとって心地よく、喜びにつながるからするのであって、
それが端から見ると大いなる自己犠牲のように思えても、
その人にとっては「自分のため」にしているのと大して変わりがないのです。

自分の求める喜びや満足を、
自分だけが属する領域に置く人は利己的と呼ばれ、
それを他人の喜び、満足と重ね合わせることのできる人は利他的な人と称されます。

利他的な人の中で、まったく無私の奉仕ができる人は、
ただ奉仕することに喜びを感じることができる人です。

ですが利他的な人すべてがそうとは限りません。
利他的行為で周りから金銭的な見返りは求めなくても、
感謝や賞賛、高い評価を暗に求めている人たちもいます。
またその中で自分の理想を追求し、人に自分の価値観を押しつけてくる人もいます。
一概に利他的と言っても人によってタイプは様々です。

利己的、利他的、それらはどのような形であっても、
最終的に求めるものは自分の心の充足感ですので、
利己的か利他的かで人を評価するよりも、
その人がどのような価値観に基づいて行動しているのかということが、
人を見る上で大切なことです。


「周りの現実はすべて自分の心が創り出している」
ということが少しずつ当たり前に語られるようになってきました。

これからは自分自身の心の中に神を見いだし、
周りのものの価値は自分で決めていく時代です。

私たちにとって最も大切なのは、
自分を愛し、自分を大切にするための主体性であり、
自分の心と頭を使った物事に対する正しい判断力です。

けれどもこの世は鏡の世界、
自分の内側を深く見つめていくための材料、教材として、
身の回りに様々な現実世界が現われています。

目・耳・鼻・舌・皮膚、五官のうち頭部にある四官、
その中で内側に向いた感覚器官(骨伝導聴覚)を持つ耳以外の三官は、
自分の外のものしか感じ取ることができません。
これは外なる世界から大いに学べということの現れです。


人は一日十数時間、起きている間中様々な思考が頭の中を駆け巡っています。
  (寝ている間も潜在意識は休みなく働いています)
思考は現実化され、引き寄せられるのですから、
頭で思い描いたことがいつか目の前の現実となって現われてきます。

そしてそのシンクロニシティー(共時性現象)は、
ここ最近の時代の急速な変化とともに、
以前よりも頻繁に起こるようになってきています。

けれども頭の中でイメージしたものが、
すべて平等に現実となって現われるかというとそうではありません。
すぐに現実化するものもあれば、いつまで経っても叶わないものもあります。

その法則性を解き明かすことは心の仕組みを知る上でとても興味深いものですが、
どうも自分の天命と反するもの、心の奥に抵抗する気持ちがあるもの、
己の欲得にからんだもの、目先の利益を求めたもの、
こういったものがなかなか現実化しにくいようです。

逆に現実化しやすいものは、
己の損得とは関係なく願う他人の幸せです。

私はこれまでいろんな人から病気や悩み事で相談を受け、
その人たちの幸せを願い、祈るということを続けてきました。
これはもちろんそれが自分の喜びであり、
そうすることが自分の運命をよくすることであると信じるからしている
究極的な利己的行為です。

公衆トイレ掃除も同じです。
目先の欲を満たすためにするのではないのですが、
最終的には自分の幸せに繋がると信じるからできるのです。
これは例外なくみんな同じだと思います。

この世は鏡の世界ですから、
幸せを願う気持ちはストレートに自分に向けるのではなく、
まず周りの人たちに向けるのがより大きな実りがある、
というふうにこの世の中は創られているのだと感じます。

ある人が仙人に連れられて地獄に行きました。
そこは想像していたのとは違い、花が咲き小鳥がさえずり、
とてもきれいなところでした。
そして食堂の中に入るときれいなテーブルに数々のご馳走が並び、
その周りをたくさんの人が取り囲んでいます。
しかし全員の手には1メートルもの長い箸がくくりつけられていて、
みんな自分の口の中にご馳走を入れようと必死になっているのですが、
どうしても食べることができず、みな飢えてしまっています。

今度は天国に行ってみました。
天国の景色は地獄で見たものとまったく同じでした。
食堂もテーブルに並ぶ数々のご馳走も、そして手にくくられている箸も・・・。
しかし違うのは、テーブルを囲む人たちがみな周りの人たちの口に
長い箸を使ってご馳走を運び、お互いが分かち合い、
みな福々としているということです。


この「天国と地獄の話」は、その仕組みを象徴的に表したものです。


これはまた時空の基本法則とも合致します。
天体が移動し、四季が移ろい、人間も生まれてから成長しやがて滅し、
すべてのものは移ろい、循環しています。

周りの人たちの幸せを願い、そして自分もまた誰かに幸せを願ってもらう、
この循環をくり返すごとに人は心を磨き、成長させていきます。

循環が時空の基本法則なら、
それをくり返すごとに成長していくのもまた基本法則のひとつです。
ですから他人の幸せを願い、それを自分の心の糧とすることは、
より積極的に行わなければならないことです。

循環が成長を導くということは、過去の歴史が証明しています。
文明法則史学で説く800年に一度の文明の大転換期は、
私たちは有史以来まだ指折り数えられるぐらいしか経験していませんが、
それらの中から、
私たちは一歩ずつより高い精神文明を目指していることが読み取れます。

このたびの大転換期は西洋から東洋への文明転換期ですが、
二回前、3200年前の西から東への転換期は、
アーリア民族群が西部アジア地域からヨーロッパへ民族移動し、
古い文明の民衆をほとんど皆殺しにしてしまいました。

前回1600年前は、
ゲルマン民族群が大移動し、ローマ帝国を滅ぼし、混血、混合化しています。

1600年サイクルという歴史の循環をくり返すごとに人類は進化し、
より高い精神性を持つようになり、
現在迎えている大転換期では、アセンション(次元上昇)と呼ぶにふさわしい
転換期になるかどうかが我々に求められています。


歴史というマクロスケールと同様に、
ミクロスケールである私たち個人も循環の法則に則り、
利他的でありまた利己的でもある「他人の幸せを願う」という行為によって
「アセンション」することを求められています。

仲のいい友達や気に入った人の幸せを願うのはたやすいですが、
そうでない人の幸せはなかなか願うことができません。

けれども願うのは身近な人たちの幸せであって、
どこか遠い存在の人のことばかり思うのは、
一種の現実逃避になりかねません。

その人とうまくいっている時は幸せを願えても、
ちょっと関係がまずくなったら知らん顔 ・・・ では、
心磨き、アセンションにはなりません。

身近にいて、なかなか愛することのできない人の幸せを願う、
これが自分の心を最も成長させ、
とても大切な「許す」ということにもつながります。


ではどうすればいいのか、
どうすればいろんな人の幸せを願えるようになるのか、
私も頭をひねり、心を澄まして考えてみました。

そのことは次回書きましょう。
みなさんもご自分でどうすればいいかを考えてみてください。


答はそれを知ることではなく、それを導く過程が大切です。
答は人それぞれ違っていてもいいのです。
それを導く過程でいかに考えたかということに価値があります。

アセンション、次元上昇するということは、
子どもが義務教育の小中学校から高校、大学へと進学するようなものです。
初等教育では、マークシート型の答案にいかにたくさん正解の印をつけられるか、
その正解を暗記しているかが求められます。

学校が上に進むと、ただ正解という知識をいかにたくさん知っているかではなく、
その知識を使っていかに様々なことに役立てるのかという
知恵が求められるようになってきます。

これからは知識ではなく知恵の時代です。
だから正解そのものではなく、
それを導く過程、その導く力が求められるのです。

魚を欲しがっている子どもに魚を与えたら、
その子は一日生きていくことができる。
その子に魚の釣り方を教えたら、
その子は一生食べるのに困らないようになる。
その子に魚をよく観察させ、その子自身に魚の捕り方を編み出させたら、
その子は魚だけではなく、鳥もウサギも捕ることができるようになります。


2010.9.7 Monday  
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