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ヨガナンダ



超能力

平安とは、ただ今現在の、生きていること、存在していること、
そのことのみに至福の喜びを感じることです。

生きている、ただそのことに意味があり価値があるのであって、
「生きる価値」などというものは本来は存在せず、測ることなど不可能です。
私たちは価値があるから生きているのではなく、
生きている、そのこと自体に価値があるのです。

けれども欲の深い私たち人間は、
人間の価値、生きる価値を何らかの尺度で測ろうと試みたりするものです。
そのひとつの尺度が「能力」でしょう。

お金儲けが上手い、勉強ができる、知識がたくさんある、
そういった人間の持っている能力で価値の優劣を判断するのなら、
人間は誰しも根源的に神と同等の超絶的な能力を有した存在であるという事実に
もっと着目すべきだと思います。

たとえ100メートルを9秒台前半で走れたとしても、
たとえプロ野球で打率4割をコンスタントにキープしたとしても、
そんな能力は、人間が日々生を営み、何世代にも渡って子孫に生を受け継いできた
その生命の仕組みと比べたら、まったく取るに足らないもの、
大宇宙の広さとチリひとかけらぐらいを比べるような、
まったく比較の対象にすらならないものです。

その偉大なる生命の神秘を、人は誰しもその肉体に備えているのですから、
そのことを念頭に置けば、
能力でもって人の優劣を判断する行為がいかに愚かなことかは、
容易に分かろうものです。

私は、人間は偉大なる生命システムを備えた神そのものであるという事実を
スピリチュアルな思考をする最前提としたいと常々考えているので、
そのことをこの「スピリチュアル夜話」でも最初のテーマとして
取り上げさせてもらいました。
  <最高の奇跡>


能力には、経済的なもの、知識といったモノや形にできるものの他、
感性、感覚といった目に見えないものもあります。

時代の大きな転換期を迎えた今、
これから始まる精神文明を象徴するかのように、
ごく身近なところで霊視をしたり病気治療をしたり、
様々な超能力を持つ人たちが数多く現われるようになってきました。

これは確実にひとつの時代の流れですが、
私たち、特にスピリチュアルなものに心ひかれる人たちは、
そういったスピリチュアルな能力を持つ人たちを、
霊的により生長した、
普通の人たちよりも一段上の存在だと見る傾向があるようですが、
それはまったくの誤りです。

霊的能力も、走るのが速い、重いものを持てる、料理が上手、手先が器用、
そういったことと何ら変わりのない、
ただその人の能力的特質、個性だと考えるべきなのです。

神と同等の尊い生命システムを持つ私たちが、
きわめて制約の多い肉体を持ち、社会に暮らしているのは、
その制約の中で何かを学び、気づきたいからと考えるのが、
最も妥当だと思われます。

だとしたら、その制約は自らが課しているのですから、
ある能力に長け、制約が緩い人たちを尊んだりうらやんだりする必要は、
本来ないはずです。


前世療法などで霊的な存在との対話を記録したものを読むと、
今世どのような状態で生まれてくるかは、
自分自身が選択して決めてくるのだと必ず述べられています。

そして肉体的に障害を持って生まれてきた人たちは、
その分大きな学びを得られるということで、
自ら試練を選んだ、より魂のレベルが高い、解脱に近い、
「偉大なるチャレンジャー」のような存在だということもたびたび目にします。

これは私たちが一般常識として考える概念とは逆かもしれません。
言い方は悪いかもしれませんが、
これまでの宗教は、ある種の “脅し” のような側面があり、
きちんと葬式を上げ、立派な墓を建てなければ成仏できない、
いい行いをしないと来世不幸な生い立ちで生まれてくると
ずっと教育され続けてきました。

けれどもこれからは、
こういった金属の時代の宗教的束縛から離れることのできる時代です。
一人一人が真理と向き合い、
己の中に神性を見る時代がやって来るのです。

能力はその人の価値とは何ら関係はありません。
すべては自ら選んだこと、
制約も自ら課し、その中で学び、気づき、
そして楽しみたいと自らが望んでいるのです。


人がもし超能力に目覚めたら、
それに頼って、本来学ぶべきものが学べない、
だからそれを封印している、ただそれだけだと思われます。

私の知り合いのある神道系の講演家は、
ある時神社で突然目覚め、木と対話ができたそうです。
けれども不思議な能力はその一時だけ、
あとはまた普通の状態に戻ってしまわれました。

そのことをある著名な神主さんに尋ねたら、
「それは本来貴方自身が持っている能力です。
 けれども今それが表に現われたら、
 今学ぶべきものを学ぶことができない。
 だからそれを自らが封印しているのです。
 いつか時期が来たら、再びその能力が表に現われてくるでしょう」
と答えられたそうです。


私にもそのような超能力体験があります。

今から二十年近く前、当時はまだ風水という言葉が一般的ではなかったのですが、
その頃親しくしていた風水師と、
全国各地の聖地を風水で清めに廻っていたことがあります。

ある時四国の宇和町というところの神社に行き、
その夜は松山の道後温泉で泊まり、
その翌日に広島に戻ってきて、友人たちと数名で夜の街に繰り出しました。

四国の神社から何かをもらってきたのでしょうか、
その夜に突然超能力に目覚めてしまったのです。

飲んでいる席の隣に気功師の男性が座りました。
その気功の姿を横から眺めると、
体の中を気が駆け巡っているのが視覚的に見えるのです。
感じるのではなく、本当に見えるのです。
体の内側を、ものすごいスピードで気がクルクルと駆け巡っていました。

誰かと何かを話していても、
その答えとなるものが、勝手に頭の中に浮かんできます。
これも感じるのではなく、数字や言葉として脳裏に視覚的に浮かんできます。

スタンドに行き、そこの若い女性が、
「私はいくつで結婚できるかしら〜?」
とつぶやきました。
すると視覚の前方上の方に、左から21、22、23、24、25と数字が並び、
21から23のところに白い帯が走っていました。

「ああ、あなたは23までに結婚できるね」
私はほぼ無意識にそう答えていました。

この超能力体験は一夜限りのものでしたが、
自分の能力、可能性の一端を知る貴重な体験でした。


どんな超能力者がいても、どんなに知識、能力のある人がいても、
そんなことで恐れることはありません。
仮に尊敬、信頼をしても、主体は必ず自分の中にある、
このことを絶対に忘れないでいただきたいと思います。

価値というものは、自分の外には存在しません。
自分の中、自分とそのものとの関わりの中にのみあるのです。

自分を愛し、信頼できない人は、
何ものをも愛し、信頼することはできません。

自分自身が超能力者であり神である、
このことを知るべき時代が来たのです。

  私は自分が神であることを知っているが、
  あなたは自分が神であることを知らない。
  私とあなたの違いはそれだけである。

          〜 サティア・サイババ 〜


2010.8.4 Wednesday  
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