我が魂の遍歴と新しい時代の理
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天理教

中学校二年になった時、父の転勤で奈良に引っ越しました。
新しい住まいとなったマンションの同じフロアーに小さな男の子のいる家庭があり、そこの家と家族ぐるみでとても親しくなりました。

翌年その家に可愛らしい男の子、三年後には女の子が誕生し、大の子ども好きの私はそれこそ全身で子どもたちに愛情を注ぎました。
後に公文という子どもの教育の会社に入ったのも、この時の楽しい体験が大きく影響していることは間違いありません。

幸せとは長続きしないものなのでしょうか。
残念ながらそのご夫婦はいろんな葛藤の末離婚をし、ご実家が天理教だった奥さんは心の修養、人生立て直しの道として天理教布教師への道を歩まれました。

布教の方法は天理教で言う単独布教というもので、着の身着のままどこかの町で布教の日々を過ごし、そこで縁を持った信者さんからのお与えだけで生活をするという過酷なものです。

布教の場所は京都市伏見区でした。
布教を始めた当初は、一番下の女の子だけを手元に置いて、おんぶ紐で背中に抱え布教に歩いておられました。
私もちょうど大学に入った頃で、子どもに会うのが楽しみで布教所に通うようになり、そのすさまじい生き様を間近で見、心動かされ、天理教に入信するようになりました。

子どものお母さん、福本純子さんが、私を神の道に導いてくださった天理教の先生です。
今現在、私は天理教という宗教からは離れてしまいましたが、先生からは定期的に連絡をいただき、何年に一度かは現在教会を構えておられる天理市に足を運ばせてもらっています。

先生の生き様は、まさに尊敬に値する理に徹しきったすさまじいものです。
天理教から離れてしまった今も、私は自分の精神世界の原点がこの天理教であり、この先生であることをとても誇りに思っています。


元々ボランティア精神が旺盛な私は、大学生になったら何かボランティア活動をしたいと漠然と考えていました。
天理教の教理の基本は「因果応報」、人にした行為がすべて自分に返る、幸せになるためには人を幸せにする、というシンプルなものです。
ですから布教師の役目というのは、天理教の布教とともに、信者さんの幸せを願った徹底した奉仕、ボランティアです。
その究極の姿を間近で見せてもらったのですから、心動かない訳がありません。 また因果応報というものが本当に宇宙の立法かどうかは分からなかったのですが、是非そうあってもらいたい、「正直者が馬鹿を見る世の中」であって欲しくないと、当時強烈に心で願いました。

当時の布教所に集まってくる人たちは、まさに心の重症患者さんばかり、誠にもってすごい世界でした。
住み込んでいたのが背中一面に入れ墨を背負い、左半身不随の元やくざのおじいさん。
けんかが三度の飯よりも大好きというおじさん、その奥さんは寝たきりの病人です。
いつもはニコニコ愛想がいいものの、一度機嫌を壊すと包丁を振り回す色情狂で小児麻痺のおじさん。

そんな人たちに囲まれて、日々いろんなドラマが生まれました。
私は自分が当事者でなかったからだと思いますが、そんなことがなぜかとても楽しく思え、布教所に行くのが何よりの楽しみになりました。

いわゆる社会的弱者と呼ばれるような方たちと一緒に生活をするのが好きなのでしょう。
天理教というものとは別に、こういった人たちとともに生活できる施設を将来運営できればと願い、特に子どもが大好きということもあり、いつか孤児院の運営をと夢見るようになりました。

その十年後、初めての海外旅行でインドに行き、インドは自分の魂の故郷であるかのような感覚を覚えました。
一昨年インド人ファミリーと偶然日本で出会いのご縁をもらい、深い心の絆を結び、そのファミリーが孤児院経営者なのですから、運命、あるいは想念というものは、強烈な力を持っているのだと思わざる得ません。


京都の布教所には毎週末泊まり込みで通い、心は一直線に天理教に傾いていきました。
けれども今考えてみると、私が心惹かれたのは天理教という宗教、教理ではなく、その人の幸せを第一義として考え生活をする布教師としての先生の姿だったのだと思います。

天理教と出合って三年目、父親が胃ガンになりました。
本人には最後まで知らせませんでしたが、医師の話によると、末期であり、余命数ヶ月ということでした。

先生は私の父とも当然面識があり、父の快癒を命がけで祈ってくださいました。
私も初めて肉親の生命の危機を迎え、必死になって助かる道はないかを模索しました。

そこで出た結論、それは私が神の道、天理教の布教師になるという志を立てることで、父の命を救ってもらおうというものでした。
これは無理矢理立てた志ではありません。
逆に好機だと感じたほど、当時の私は天理教の世界に深く心が入り込んでいました。 当時住んでいた奈良県生駒市の自宅から、上の系統である大和郡山市にある郡山大教会を通り、天理市の天理教教会本部に三日間、自転車をこぎ片道二時間以上かけて通い、神前で誓いを立てました。

その時の誓いが聞き入れられたのかどうか、父はその時の危機は手術で何とか脱することができ、その四年後、再発したガンによって黄泉の国へと旅立っていきました。

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