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2018年12月4日 ・・・ 利他と利己

第二次世界大戦終了後、
日本は荒廃しきった状況から急速な勢いで復興し、
世界第二位(現在は三位)の経済大国にまで登り詰めることができたのは、
日本人の勤勉な国民性があればこそです。
けれどその過程で、また失ったものも多くあるということも事実です。

経済を発展させるには様々な技術開発が必要で、
それらすべての技術には、
その基礎となる原理や法則があります。

けれど手っ取り早く新たな技術を生み出していくには、
基礎となるものの研究に時間を費やしていくわけにはいきません。
それが長い目で見て発展の土台となるものであったとしても、
基礎研究には時間がかかり、
それが成果として現れるまで長い間待たなければならないので、
まずは応用技術を習得し、
どんどんと既存のものに改良を加えていくのが短期的に見て善なのです。


日本は本来素晴らしい基底文化を持った国ですが、
開国を強いられた明治維新、
それまでの国体を否定するところから始まった戦後、
この二つの大きなターニングポイントを経て、
日本人は潜在的に自らの根底を見つめることを拒否し、
表面的、応用的なことに意識の焦点がいくような
国民性を持つようになってきたのだと思われます。

最高学府である大学でも、
文系では文学よりも経済や法学、
理系では理学よりも工学といったように、
より応用的学問を学ぶ学部の方が就職に有利であり、
学生の人気も高いというのが一般的傾向です。

基礎というのは土台となるものです。
この土台がしっかりとしていなければ、
強い風が吹くことなく、順調に発展し続けている時はいいものの、
周りの環境が変わったり、これまでの成長に陰りが見え、
新たなものを生み出す必要に迫られた時、
途端にその勢いを失ってしまいます。

高度経済成長を経た後、今の停滞する日本は、
まさにこういった状況にあると言えるのではないでしょうか。


一時が万事、すべてはフラクタル、自己相似形です。
基礎というのは土台であり要(かなめ)です。
人間の肉体で要となるのは、
要に月(にくづき)を加えた“腰”です。

『教育の基本は立腰にあり』
これはこれまで何度も引用してきた偉大な教育者森信三先生の言葉です。
腰骨をきちんと立てること、
これが教育、生き方の基本であるというのは、
肉体の要である腰をしっかりと活かすということでもあります。

また数年前から、多くのスポーツ選手の間で、
「体幹を鍛える」ということが合い言葉のようになっていますが、
この体幹とは、腰から背骨を通って頭部に至る中心軸であり、
これは肉体の基礎、基本となるものの重要性の見直しといったことです。

そして腰の最も近くにある臓器である腸も、
最近その重要性を説く声が高まっています。
これもやはり肉体的原点回帰と言えるでしょう。

今という大きなパラダイムシフトの時を迎え、
停滞した現状を打破すべく、
すべてが原点に戻り、基本となるものを見つめ直す動きが始まっています。
またそうならなければなりません。


自分は研究肌で趣味人的傾向が強く、
何事も基本的な原理、原則を感じ取ることが好きなので、
いつもこのようなことを考えています。

昨日、こんなツイートを目にし、
こういった見方もあるのかということを知りました。


この図の縦軸は、
上側が「基礎」、下側が「応用」と置き換えることができます。

芸術、科学というものは「自分のため」であるということ、
「自分のため」というのは言葉を換えると、
「すぐに他人のためにならない」ということです。

けれど「すぐに他人のためにならない」というのは、
永遠に他人のためにならないということではありません。

Appleの創業者であるスティーブ・ジョブズは、
大学を中退した後、自由な聴講生としてタイポグラフィを学び、
そこで培った感性でAppleの製品を芸術性の高いものに仕上げ、
iPhoneやiPadといった既存の製品の延長ではない
画期的なモノを世に生み出しました。

科学もまた、一見何の役に立つか分からないような研究も、
将来、画期的技術発展に寄与するというのはよくあることです。


基礎的なものと応用的なもの、
自分のためにすることと他人のためになすこと、
これらは対極にあり、二つでひとつの共生関係で、
全体が発展していくため、
どちらも欠くことのできないものであると言うことができます。

日本が戦後、「生めよ増やせよ」で急速な発展を目指してきたからこそ、
今、今度はその対極である基礎的なものの大切さを
見つめ直す動きが出ています。

これは自然のバランスであり、
流れとしては、必ずこのように両極を行きつ戻りつといった形になります。
そしてもしその流れに逆らおうとした場合、
膨らみすぎた風船が爆発するように、
また縮み切ったバネが一気に延びようとするように、
大きな反動を食らうことになります。


こうして書いていて、インド、マザーテレサのことを思い出しました。

自分はインドの貧しい子どもたちに幸せを届けたいというのが、
生涯を通して成し遂げたい大きな天命、目標のひとつです。

ですからマザーテレサの生き方に強く憧れ、
できるならば自分もあのような生き方をしたいと強く望みます。

そんな自分の目から見て、
マザーテレサは幸せそうに見ることはできても、
辛い環境に耐え忍んでいるようにはなかなか思えないのです。

奉仕には自己犠牲が必要です。
けれど自己犠牲だけで奉仕活動を全うすることはできません。
自己犠牲と同時に、そこに自らの大きな喜びを見いだせなければ、
長く活動を続けていくことはできません。

自分のことで言うならば、
インドに行くのは楽しいから、喜びを感じるから、
これが動機のすべてです。

月に一度公衆トイレの便器を磨くのは、
それをすることで気持ちがスッキリするからで、
そこに“我慢”という感情はありません。

そんな自分の目から見て、
マザーテレサは利他愛に満ちた人であると同時に、
他人の喜びを自らの喜びとすることのできる人であると感じ、
お金持ちが豪遊するのと同じ喜びを、
マザーテレサは貧しい人々との暮らしの中で感じ取っていたのではないか、
そう思えてならないのです。
もしそうであるならば、利他と利己に区別はありません。

上の図では、「自分のため」と「他人のため」が、
ひとつの座標軸の対極にありますが、
やはりそれらの行き着く先は同じところなのでしょう。

そしてそれが、究極的に目指すべきゴールです。

2018.12.4 Tuesday  
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