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2018年1月16日 ・・・ 神一条

昨年末から更新がだいぶ開いてしまいました。
年末は30日から自分にとっての精神世界の原点である天理に帰り、
九日間を過ごし、7日夜に広島に戻ってきました。

心にいろいろと感じるところがあり、
いよいよ広島で新たな年のスタートをと思っていたところ、
翌8日から39度を超す高熱が出て、
数日間完全に寝たきり状態となりました。

症状から見てインフルエンザにかかったようです。
天理では普段の生活リズムと大きく異なる毎日で、
特に最後の日は、
三時間睡眠で掃除やちっちゃな子どもたちとの遊びで半日過ごし、
青春18きっぷで在来線を乗り継いで帰ってきたので、
広島に着いた途端、疲れがどっと出たのではないかと思います。

そんなインフルエンザの症状もだいぶ治まり、
先週末から本格的に外で活動することができるようになりました。
けれど体調はいまだ完璧ではなく、
咳や鼻水は止まらず、
外で動く分、家に戻ればバタンキューといった感じです。


以前にも書いたことがあると思いますが、
自分の人生を大きく貫くテーマ、
それが『神一条』です。
天理に戻ると、その思いに至った当時のことを思い出します。

大学に入ってすぐの頃、
家族ぐるみで親しくしていた女性が幼子を抱えて天理教の布教師になり、
京都のボロアパートを拠点に、
半身不随の元やくざ、色情狂の小児麻痺のおじさん、・・・
雑多な人たちの中で、天理教の教えを芯として、
互いの人生を切り拓く道を歩んでいました。

当時純粋だった自分は、
そんな社会的弱者の人たちとの混沌とした暮らし、
他人の喜びを己が喜びにできる生活に憧れを感じ、
そして何より天理教の根本理念である『因果応報』の教えに心惹かれたので、
自然と天理教に入信するようになりました。

その後すぐに父に胃ガンが見つかり、
その父の命をなんとか助けたいと真剣に願い、
自らの一生を神に捧げる『神一条』を誓いました。

神一条とは天理教の専門用語なのでしょうか、
天理教の布教師として、一生プロの宗教家の道を歩むということです。

さすがに急な決断に周りの人たちは大慌てし、
当時懇意にしていただいていた
故村上忠雄先生(和雄先生の弟さん)に相談し、
村上先生から「大学だけは出ておいた方がいいよ」
というお言葉をいただき、卒業、就職という道を進むことになりました。

あの時あのお言葉をいただかなければ、
大学を中退して天理教の道に入り、
きっと道半ばで挫折していたことでしょう。
今冷静に考えてみて、特定の神名を絶対として崇める宗教家に
なるべく資質は自分にはありません。


けれどあの時の神一条の誓いは、
今も自分の心の中に深く息づいていることを感じます。

天理教という特定の宗教からは遠く離れてしまいましたが、
プロの宗教家としてではなく、
宗教家と同じく高い志を持ち、
神とは、生命とは、この時空とは、・・・
そういった真理を解き明かし、
それでもって多くの人に幸せを与えたいという思いは、
あの誓いを立てたと当時とまったく変ることがありません。

そんな自分の人生を大きく貫くテーマである神一条、
この思いを、数年に一度天理を訪ねるたびに思い出し、
このたびも、もっともっと神一条の思いに忠実に、
より自分の生き方を研ぎ澄まさなければならないと深く感じました。


宗教に対し、その本質とも言えるぐらい強く感じる特質、
それが『求心性』です。

いわゆる宗教は、教団という組織、文字で示された教義を持ち、
その宗教独自の祈りのスタイルを持っていて、
その形を頑なに守ることが望ましい宗教家の姿とされています。

天理教を例とするならば、
その教えの根本に『二つ一つが天の理』という言葉があります。
これは東洋の陰陽論と同じであり、相対性を表し、
これ自体は絶対的真理(まこと)です。

二つ一つが天の理は、それを説く天理教、宗教であったとしても
その相対性の世界の中にあるべき存在であり、
江戸から明治の頃に生まれたその教えは、
当時の日本の状況とは切っても切れない存在、
つまり「二つ一つが天の理」であったはずで、
社会の状況がまったく異なってきた今では、
宗教、教団の形を大きく変えなければならないはずですが、
実際はそうなってはいません。

この世は相対の世界であると説くものの、
求心性を強く持つ教団としては、
自らは形を変える必要の無い絶対的存在であると説かざるえないのでしょう。

これは天理教だけではなく、
他の教団でも同様のことがあるものと思われます。
時空の真理である相対性は、
強い求心性と完全に融和することはありません。


天理教の教会では、朝5時半から神殿掃除をし、
6時半から祈りの儀式である “お勤め” を行います。
これは信仰生活の柱となるもので、
これが神に帰依する証であり、
自らを高めるためのものであると信じられています。

こうして厳しい様式によって身を律することで、
心を鍛え、己の信じるものを深く心に刻む大きな力となりえます。

けれどどのようなことも100%メリットばかりではありません。
自分のように宗教外にいる人間から見ると、
日々多くの時間を神事に費やすのなら、
その時間を少しでも幅広い見聞を得るために使えば、
より真理を見る目が開かれるのではと思ってしまいます。
それが「二つ一つが天の理」、
天理教とともに、天理教以外のものをも重んじる、
教理により忠実な生き方だと感じるのです。

これも他の宗教も同様です。
その宗教を絶対視し、他のものには脇目も振らぬ信仰態度、
それが“敬虔である”と尊ばれる、
高い求心力の持つ姿です。


普段は昼夜逆転現象に近い生活をしている自分ではありますが、
天理にいた後半は、
なるべく5時半からの神殿掃除に参加するようにしました。
(インドのお寺では午前4時から南無妙法蓮華経です)
これはこれで身の引き締まる心地いい作務であります。

ではこれと同じタイムスケジュールで、
これからも毎日何か自分を高めることを行えるかというと、
それは自信がありません。

自らの力と意志で己を律するのは難しいことです。
たとえ与えられた型にはまったことであったとしても、
求心力の強い組織は、人を導く大きな力を持っています。


五行の理、木火土金水の流れで言えば、
これまでの宗教は、明らかに硬く、形をしっかりと持った金属の時代、
そしてこれからは科学万能思想が終焉し、
金属の次、長く持続可能な水の時代となるはずです。

自由自在、形を持たない水は、
理想に近い姿ではありますが、
それは自らの意志と行動で律していくことが求められる
厳しい内面を持った姿でもあります。

敬愛するブルース・リーは、
生前水の理についてたびたび述べています。





つまりスタイルは
人を分け隔てるだけではなく

個々の教義がその人々にとっての
絶対的真理となってしまう

見ての通り
僕はスタイルを持たない

人間として自分を完全に
表現するには どうすればいいのか

自分を決めてしまうスタイルを
作らないことさ

そうすれば成長できる


再度天理教の言葉を引用するならば、
その教義の中にこのような言葉があります。

『水と神とは同じこと』

この真理を心に刻みたいと思います。

2018.1.16 Tuesday  
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