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2016年8月15日 ・・・ お盆に思う

今日は8月15日、終戦記念日、
先祖が里帰りをするお盆の時期に終戦記念日があるというのは、
偶然でも何か深い意味を感じます。

自分の両親の墓は奈良にあり、
なかなかお墓参りに行くことができません。
それでも広島にいて、知り合いのお墓参りに同行させてもらったり、
お家の仏壇を拝ませてもらうことがあり、
その時には奈良にある両親の墓を思い、
心の中で亡き両親の御霊に祈りを捧げています。

人間の魂は永遠不滅です。
そのことを知っていると言えば不遜かもしれませんが、
これまで体外離脱を含めた様々な体験を重ねてきているので、
そのことは十分自分の中では確信になっています。

ですから死を迎えること、
生と死の狭間を乗り越えることには多少の恐怖はありますが、
死後の世界には憧れこそあれ、不安はまったくありません。

ただ今の状態のまま死を迎えたら、
きっとやり残したことに深く後悔することは必定ですので、
それに対するプレッシャーは大いに感じています。


そんな死生観を持っていますので、
死んだ時には立派な葬式をしてもらいたいとか、
どこそこの墓に入りたいとか、しっかり弔って欲しいとか、
そんな思いは微塵もありません。

遺骨は海にでも山にでも散骨してもらえればいいですし、
お墓も不要です。
生きている間に多くの人の益になることをしたいという思いは強くありますが、
それに対し、死後名前を残したいという気持ちはまったくありません。

近年変わりつつあるとは言うものの、
ほとんどの日本人は仏式で盛大な葬式をすることを望み、
お墓も立派なものを構えています。

けれど仏教開祖のお釈迦様は、
葬式やお墓の必要性を説いたことはありません。
それを必要とするようになったのは、
日本に仏教が入ってきた際に、
それまで日本にあった神道や土着の古代信仰と結びつき、
仏教が生者のものから死者のものへ、
先祖崇拝を主眼とした「葬式仏教」へと変容したからです。

だからといって日本型仏教信仰が間違っているわけではありません。
臨死体験者が民族によって異なる死後の世界を見るように、
人間の深い意識の奥には、全人類、全生命が共有する集合的無意識があり、
その上層には民族固有の民族的無意識があって、
ある民族が、その民族固有の信念を強く持っているならば、
その信念は無意識の中に歴然として存在するのです。

その民族的無意識も、
これから人々の価値観が変わっていき、
グローバリズムが進行するに伴って、
少しずつ形を変え、また薄まっていくものと感じます。


それぞれの人、または民族が持つ
固有の価値観や死生観は尊重しなければなりません。
自分自身はお墓は必要ないと思っている人間ですが、
お墓に参らせていただく時はきちんと手を合わせ、
心の中でお墓に眠る人に対し、あの世での幸福を祈ります。

神道の社に奉られているご神体は鏡です。
鏡とは対面する己を映すもの。
神に手を合わせることによって己自身に手を合わせます。

そしてお墓も同様で、
手を合わせ、そこに眠る人たちに思いを馳せ、
その人に感謝を捧げ、別世界での幸福を祈らせてもらう、
そのことによって己の心を磨かせてもらっているのだと感じます。

さらにはトイレ掃除も同じことです。
真っ白なホーローの便器を鏡の如く磨き上げ、
そこに映る己の心を磨き上げるのです。
『トイレ掃除は心磨き』、
このことは実践した者なら分かるはずです。


お墓に眠るのはご先祖様です。
ご先祖様とは、植物でいえば根っこのようなもの、
そのご先祖様に手を合わせるのは、植物に水を与えるのと同じことです。

『情けは人のためならず』
これは万事に通じる真理であり、
人様、ご先祖様の幸せを祈ることが、自らの幸せに通じます。


そしてその祈る形態は、宗教、宗派を問わず、
どの様なものであっても構わないと考えます。

これはもちろん人によって異論のあるところだとは思いますが、
無宗教であっても無信心、無神論ではない、
すべてのものに魂が宿ることを感じることができ、
それを尊ぶ本来の日本人的精神に近いものだと感じます。

南インドへのご縁をくださった日本山妙法寺は日蓮宗ですが、
インドの道場の法要では、
キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教、様々の宗教家の方たちが、
それぞれの法衣をまとい、それぞれの宗教の祈りを御仏壇に捧げていました。
これはインド独立の父ガンジーが提唱したものだそうですが、
インドにはヒンドゥー教の精神が幅広く根付いていて、
ヒンドゥー教は多神教であり、
仏陀ですらヒンドゥー教の神の一人として崇めるぐらい大きな包容力を持ち、
それゆえに宗教間の壁も低いのだと感じます。

これが絶対にいいとは言い切りませんが、
一神教の自らが信じる神こそが絶対だと信じる教えよりも、
諍いを生み出す可能性は低いと考えます。


目の前にあるものが仏壇であれ、神棚であれ、
また他の宗教のご神体であれ、
それにそれぞれの宗教に応じた祈りを捧げながらも、
最終的に見つめているのは自らの心であると感じたならば、
一人一人の価値観の違いを乗り越え、
大きな融和が生まれてくるでしょう。

これからは長いスパンでの水の時代を迎え、
無定型、融和、融合、調和、
そういった価値観が何よりも重んじられるようになってきます。

その時代の理に則って宗教のあり方を考えるならば、
拝むべきものは自らの心、
尊ぶべきものは生命(いのち)、
そしてそれを拝み尊ぶべき手段として、
仏壇や神棚に手を合わせ、神の力を借りていく、
こう考えるのが理想だと信じます。


お盆は自らの根っこであるご先祖様のご恩に感謝すべき時、
ご先祖様がいてくださったからこそ、
自らがこの世に生を受けることができました。

ご先祖様に感謝すること、それは自らの生を尊ぶこと。
そして自らの生を享受すること、
それはご先祖様にも喜びを与えるものだと信じます。

2016.8.15 Monday  
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