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2015年8月20日 ・・・ 比較と相対

この時空にあるものはすべて周りの何らかと関わりを持ち、 (共生)
時とともに移ろいます。 (循環)
そしてこの法則性が、ミクロ(極小)からマクロ(極大)まですべてのスケール、
時間、空間といったすべての概念をも律しています。 (フラクタル、自己相似形)

すべてのものは相対関係によって成り立ち、
何ひとつとして絶対的なものは存在しません。

最も基本的な概念要素である陰陽も同様で、
どのような極陰のものにも必ず陽の要素が存在し、
極陽のものも同様、必ず陰の要素が含まれます。

ですから絶対的な陰、絶対的な陽は存在せず、
ある他のものと比べてこれは陰、これは陽と、
比較の上でしか陰陽を判断することはできないのです。


そして比較できるのはあくまでも同一の尺度の上だけ、
かつ明確な判断基準がある場合だけであり、
それ以外のものは比較することができません。

例えば二つの色を比べ、どちらが明度、彩度が高いかといった比較は、
明確な基準があるので可能ですが、
どちらが美しいかといった判断は、
それを受け取る個人の美意識との関係に依存するため、
本来比べることは不可能です。

けれど人々の持つ主観にはある程度共通するものがあり、
多くの意見が同じ方向に集約する場合、
あたかもそれが絶対的なものであるかのように判断するのは致し方ありません。
何事も厳密にとらえ、比べられないとしてしまうと世の中スムーズには回りません。
特に効率化を追い求めるなら、
最大公約数の意見に従い、評価を固定化してしまう方が楽なのです。


しかしながら今はそれが行きすぎているように感じます。
まるで比較中毒かのように何でもかんでも比べてしまい、
あたかも他と比較をし、優劣をつけなければ
そのものの価値が分からないかのようです。

日本一のラーメン、ご当地B級グルメNo.1、
最近は食べ物にも優劣をつけるのが流行を通り越し、
当たり前のようになっていますが、
食の好みには個人の嗜好、体質が大いに反映され、
またその土地の特産物や気候風土にも関わることなのに、
これを比較して順位をつけるのにどれだけ深い意味があるというのでしょうか。

学びの場である学校も、
様々な分野の学問を、
それぞれの学校の特徴を活かして指導していくところであるにも関わらず、
いまだ偏差値という一律の尺度で優劣をつける考え方が根強く残っています。
  (これは学校が、学問を修める場である本来の機能を
   失ってしまった結果でもありますが ・・・ )


何事にも絶対的かのような価値基準で評価をつけてしまうのは、
それを受け取る側にとって、楽であるという面もあります。
自ら価値基準を持つことなく、
ただ他人の評価をそのまま受け入れてしまえばいいのですから。

けれど自らの価値基準を持たないということは、
最も大切な己の内面から目を逸らしてしまうしいうことです。
究極の幸せをもたらす「幸せの青い鳥」は、己の内面にしか存在しません。

また他人がつけた評価は、どうしてもシンプル、一律になりがちです。
これは効率的ではありますが、生命の強さを示す多様性とは相反します。
様々な環境変化の中で強く逞しく生きていくための生命、種の条件は、
それに対応する多様性を持つことです。
価値観の単純化は、種の衰退の道に他なりません。


自らの価値基準をしっかり持つということは、
その基盤となるその人の精神的支柱をしっかりと保つということです。

精神的支柱とは、肉体に例えると、体幹、背骨に相当します。
今の日本人の多くは腰骨を立てることができず、背中を曲げ、
いつもゾンビのような暗い表情をしているのは、
この精神的、肉体的支柱がまったくできていないからです。

精神と肉体は、深く呼応する関係にあります。


インドに行っていつも感じるのは、
「人間は貧しくても明るく幸せに生きていくことができる」
ということです。

日本にいると、お金、モノがないと幸せになれないと
つい思い込まされてしまいますが、
それはあくまでもひとつの価値基準に過ぎません。

今の日本人は、一律に判断できる金銭、物質の多寡のみに価値を置きすぎです。
しかも本来比べるべき己の内の価値基準を捨て、
他人、隣人という外部との比較に奔走した結果、
日本は世界有数のリッチな国になったにも関わらず、
いつまで経っても心の中は幸せで満たされることはありません。

お金やモノが増えることで単純に幸せになれるのなら、
今の日本人は、江戸、明治時代の人たちよりも
はるかに喜びに満ちた日々を過ごせているはずです。
なぜそうはならないのか ・・・ 、このトリックをよく考えてみる必要があります。


お金やモノが悪いということではありません。
大切な事は、それらと関わり、判断する基準を己の中に取り戻すこと。
精神的支柱、肉体的支柱をしっかりと築くことです。

地球環境が壊滅的に破壊された今、
もうこれ以上やみくもにお金やモノを追い求めるのはナンセンスです。
それをしたところで、今以上の幸せを得られないのは明かです。

それよりも、目に見える世界で、
しっかりと肉体的支柱である背骨を伸ばすトレーニングをすることです。
これが本当の幸せをつかむための欠かせない第一歩と信じます。

インドの子どもたちの明るい表情、幸せに生きる姿の根本は、その姿勢にあります。




今年の8月6日、広島に原爆が投下されてからちょうど70年目の日、
広島平和記念公園で行われた平和式典に参加してきました。

例年猛暑の中、この式典には大勢の人たちがつめかけ、
会場となる公園の中は、移動することもままならないほどです。
特に今年は70年目という節目の年に当たり、
例年よりも参列者が多く、会場は猛烈な熱気に包まれていました。

そんな中、式典が終わり、原爆資料館の下あたりでうろうろとしていると、
な、なんと、目の前にあのマルタ・アルゲリッチがいるではないですか。 w(*゚o゚*)w
音楽ファン、クラッシックファンの自分にとって、
マルタ・アルゲリッチは最も敬愛するピアニストの一人です。

アルゲリッチがどうして平和記念式典に来たのかは分かりませんが、
日本人と思われる数名のお付きの方となにやら談笑しています。

あまりミーハーではないことを自認しているのですが、
アルゲリッチはさすがに世界で最も尊敬する音楽家です。
しばらく躊躇していたものの、思い切って声をかけ、
写真を一枚撮らせていただきました。



本当はツーショットの写真も撮りたかったのですが、
さすがにそこまでの 厚かましさ 勇気はありませんでした。 (;^_^A




なんでこの日、アルゲリッチに出会えたのでしょうか。
二、三十年前、クラシックを好んで聴き始めた頃は、
アルゲリッチは断トツで好きな演奏家で、
彼女のCDを頻繁に聴いていたものです。

けれど今は他にも好きなピアニストがたくさんいて、
自分の中でのアルゲリッチの存在は、
以前ほど大きなものではなくなってきています。

それでも突然アルゲリッチと出会えたというのは、
自分にとっては極めて大きな出来事であり、
何かそこに意味を見いだそうといろいろと思案してみました。


これはもちろん勝手な想像ですが、
ひとつだけ思い当たることがあります。
今年は2015年、5の倍数の年であり、
5年に一度、ショパンコンクールが行われる年です。

その今年のショパンコンクールに、
大好きな小林愛実ちゃんが出場するのです。
  <生命の輝き>
あの幼くて可愛らしい愛実ちゃんももう二十歳、
もうちゃん付けするような年齢ではありませんね。
  (今回のコンクール参加資格は、1985~1997年生まれ)

彼女は今回ショパンコンクールにエントリーし、
当然ながら無事予備予選を突破し、
10月に行われるワルシャワでのコンクールに出場することになっています。

その予備予選での演奏がYouTubeにアップされています。
もうこれはコンクール参加者というレベルの演奏ではありません。



で、アルゲリッチですが、
彼女は1965年の第7回大会に参加し、第一位を獲得しています。
  (その時、中村紘子は第四位)

そのアルゲリッチに出会えたということは、
小林愛実ちゃんは、今回かなりいいところにいけるのでは ・・・ 、
第一次から三次までの予選は当然通過してくれるものと思いますが、
その先、コンチェルトを演奏する本選の六名に残り、
上位入賞、もしくは優勝 ・・・ と大きな期待を抱いてしまいます。

かなり勝手なこじつけですが、
淡い期待を大いに込め、そんな思いを持っているのです。


彼女の演奏は生で聴いたことは一度もありませんが、
YouTubeで幼い頃からのものを聴き続け、
彼女の演奏の変化から、人の成長のあるべき姿の一端を見るような気がします。

彼女の幼い頃の演奏は、
年齢にそぐわない圧倒的技量の裏に、
あふれにばかりの生命の喜びとみずみずしさを感じさせる、
聴いていて心の奥から幸せを引き出してくれるようなものでした。

成長し、二十歳になった今、
その奏でる音はさらに磨き上げられ、
着実に大いなる高みに向かっているのを感じます。

けれどやはりその裏側には、
幼い頃の演奏が耳に残っているからなのかもしれませんが、
可愛らしい、なにかつい微笑んでしまうような、
そんな透明で子どもらしい素直な感性を感じます。


彼女がショパンコンクールに出ると知った時、
もうそこまでの年齢になったのかということ、
そして出るからには、少しでも高い順位を取ってもらいたいということ、
この二つのことを思いました。

けれどそれよりも強く感じたのは、
彼女の奏でる音の魅力である、
その人を幸せを導くようなみずみずしい音の響きは、
本来他のどんなものとも比べて欲しくはないということです。

ピアノの技量は他人と比較することは可能ですが、
その感性と呼べるようなものまで比較の対象にし、順位をつけられてしまうと、
例えその順位がどうであれ、
それが汚されてしまうような気がして、
正直あまり心地のいいものではありません。

しかしその思いをさらに深く感じてみると、
順位付けで汚された気がするというのは、
それだけ自分が順位という他人の評価にこだわっているからであり、
そこにこだわりがなく、
純粋に彼女の感性に耳を傾けることができるのであれば、
そんなことはまったく気にかけることはないということが分かりました。


絶対的陰、あるいは絶対的陽であるものは、なに一つない。
すべてのものは程度の差こそあれ両性あわせもっている。


比較することが絶対的に悪いわけではありません。
比較することから成長のステップが生まれ、
喜びの種となることもあります。

ようはそれを自分自身がどう捉えるか。
その自分の内面にある支柱からの発想が何より大切です。

けれどやっぱり、小林愛実ちゃんにはコンクールで十分実力を発揮し、
悔いのない結果を残してもらいたいものです。

そして彼女のその努力と奮闘から、
きっとまた新たなものを学ばせてもらえるものと信じます。



2015.8.20 Thurseday  
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