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2015年1月7日 ・・・ 食は命の継承

昨年末のペヤングに続き、
ここ数日、マクドナルドの異物混入騒ぎがマスコミを賑わしています。

日本社会の衛生観念は世界トップレベルで、
それはそれで素晴らしいことだとは思いますが、
その対極にあるインドの不衛生さを知っている身からすると、
あまりにも異常過ぎるように思えます。


インドでは、食べ物のあるところではハエが飛んでいるのが当たり前です。
これは魚市場の写真、魚に乗っている黒い点はすべてハエです。



町では美味しそうな果物のジュースを売っていて、
そのジュースを素早い手つきでビニール袋に入れ、
口を輪ゴムで縛るのですが、
その周りにもおびただしい数のハエが飛んでいて、
もしかしてジュースを入れた袋の中にハエが混じるのではという不安が拭いきれず、
なかなか買うのには勇気がいります。

調理をする時、日本のように材料を丁寧に洗うことはありません。
野菜などは土足で歩く床の上にそのまま転がしたり、
洗っていない手で直接材料を触ってもノー・プロブレム(問題なし)です。




衛生管理が徹底し、除菌・滅菌が行き届くのは悪くありません。
それはとても贅沢なことであり、
それを実現できることは、
ひとつの豊かさの象徴であると言ってもいいと思います。

けれどそれとは逆に、多少の “汚れ(けがれ)” は自然のものとして受け入れ、
すべてをおおらかに対応することもまた、
広い許容量という意味での豊かさです。


このどちらがよくてどちらが悪いということはありません。
どちらにもいい面と悪い面があり、それに絶対的な善悪をつけることはできません。

けれどもしどうしても善悪をつけるとするならば、
そのどちらか一方のみの価値を尊重し、
「こちらが絶対である」と考える捉え方そのものが間違いであり、悪だと言えます。

文明には流れがあり、
衛生観念の徹底した今の日本の “自然との接し方” は、
西洋文明の行き着くごく自然な帰結点です。

けれど雑菌や汚れを徹底して悪として封じ込めようとする絶対的な姿勢に、
高く積み上げた砂上の楼閣のような危うさを感じます。


今の日本の価値観では、
完璧なまでに清潔な環境で作られ、
季節や日本の風土とは関係なく、
世界各地から選りすぐられた美味しいもの、
それを一年中好きな時に好きなように食べられることが
最高の贅沢であり、豊かであると考えられています。

けれどこれは本来の自然のあり方からははるかに遠いものです。

インドの貧しい村の家庭に冷蔵庫はありません。
口にできるものは、村の近辺で採れたものに限られます。
畑はハウス栽培などほとんどなく、すべてが露地栽培で、
その季節の旬の物しか食べることができません。

もちろん農薬や化学肥料などもほとんど使うことができず、
土地の風土や季節に応じ、自然に採れたものを自然にいただく、
ですから食事のメニューはきわめて限られ、
いつも同じようなものを繰り返し食べています。

しかしながらそれが体が喜ぶ真の健康食であることは、
その食べ物を口にした人間の体が一番よく知っています。
人間の体は自然の一造物であり、
自然のものを最も自然に受け入れるようにできています。


七年前初めて南インドに行き、
一ヶ月間インドの食べ物を口にし、
それがいかに体が喜ぶ食事であるのか、
また逆に、今の日本の食生活は、人間の生命力を損なう
『亡国の食』ではないかということを痛切に感じました。

これは理屈ではなく、体がそう感じたことであり、
その後四回南インドを訪ね、
その感じ方により深い確信を持つようになりました。


食はその人の体、心を造る根本です。
インドの子どもたちのあの輝くような笑顔、
逞しくもしなやかな立腰の姿勢は、
自然に根ざした健全な食生活抜きに造り上げることはできません。






日本人の食生活で、今最も求めなければならないことは何なのか、
それに今一度心を向けてください。

マクドナルドの商品に糸くずのようなビニールや、歯、
プラスチック片が入っていること、
それで何万人の客の中の一人が口の中を怪我をすること、
これは決していいことではありません。

けれどそんなことよりもっともっとはるかに大切な事があるはずです。

『木を見て森を見ず』という言葉があります。
細かい木ばかり見ていると、
本来最も大切にすべき森全体の姿が見えなくなってしまいます。


この春から厚生労働省が、
スーパーやコンビニの弁当、総菜類の中から選定し、
「健康な食事」という認証マークを与えることになりました。
  <「健康な食事」に認証マーク コンビニ弁当など  日経新聞>

けれど本当に人体が喜ぶ健康な食は、
科学的に栄養成分を分析して説けるものではありません。
カロリーや栄養素等、それらが無意味とは言いませんが、
その表面に現れた数字のみを絶対視し、
それで健全な肉体を育むことができるという考え方から
一日も早く脱しなければなりません。

人体が求めているのは “食の命” です。
命ある食を口にし、その命を継承することによってのみ
この肉体生命を輝かせることができます。

人体をバラバラに切り刻み、
その構成要素を顕微鏡でいくら観察したところで、
命の “属性” を知ることはできても、
その “本質” を理解することはできません。

農薬・化学肥料を大量に使ってできた野菜、
成長促進のためのホルモンを投与して肥え太らせた豚、
肉骨粉を食べさせられた草食動物である牛、
それら食材を気候風土の異なる遠い国から輸入し、
色素で色づけ、香料で香りづけ、
様々な添加物で味、食感を調整し、
防腐剤で菌を殺し、いつまで経っても腐らないようにする、
そんな食べ物は、いくらデータの上で栄養バランスが取れていると評されたとしても、
人体に宿る命にとって有益であるはずがありません。


食品の中に多少の異物が混入していても、
それで命が損なわれることはありません。
それよりも、命にとって最も大切なものは何なのか、それを知り、
その大切なものを何より尊ぶべきです。

ではなぜそれができないのか、
それは日本人の頭の中が、絶対的価値観に占められ、
ひとつの極の考え方から抜け出せなくなったからです。
いわゆる利便性・快適性・衛生原理主義です。

また自然と対立し、自然を征服しようとする西洋的思考化が進み、
自然から離れてしまった結果、
大きな自然、命のあり様が見えなくなってしまったのです。


これから文明の流れは確実に西洋から東洋へと移っていきます。
だからこそ現在、西洋的思考の問題点が数多く表面化しています。

人間は自然の一造物です。
人間は自然を超えることはできません。

~ 自然にあるものこそが素晴らしい、我々はそこから学ぶだけである。 ~
                              アントニ・ガウディ

2015.1.7 Wednesday  
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