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2013年12月3日 ・・・ 日常こそが奇跡

明日12月4日はインド最南端カニャクマリのホームを運営する
スギルタンの娘スギラの結婚式です。
彼女と初めて会ったのは6年前、
インドの一行とともに東京~熊本の阿蘇を二週間かけて旅をした時です。
  <インドの人たちと東京~阿蘇を行脚>

あの当時スギラは17歳だったので、
今はたぶん23か24になっているはずです。
俊才のスギラは現在大学で “ビジネス・マネージメント” を指導していて、
ピッカピッカのレディーになっています。

スギルタンは、
「サカイは家族なんだから結婚式に来なくてはいけない」
と言ってくれたのですが、
12月は仕事が忙しく、
残念ながらインドに行くことはできませんでした。

インドではすでに十回ぐらい結婚式に出ていますが、
日本の結婚式とはだいぶ様子が異なり、
ステージに鎮座する新郎新婦のところに行って順番に写真を撮ってもらう
大撮影大会兼大食事会といった雰囲気です。

スギラの結婚式を案内するホームページもできています。
こんなところもインド風なのでしょうか。
  <Abernesh Justin & Sugila Sugirthan - wedding website by mywedding.com>
     ・・・ たぶん式が終わるとページは消えると思います。


前項で書いたようにスギルタンの弟であるスレッシュと娘ジーナと過ごした
広島での一時は、まさに何かに導かれているような不思議な時間でした。

これまでインドとの関わりでは奇跡とも呼べる不思議な体験を数多くしています。
インドに関してはもう奇跡が当たり前であり、
いろんなことが起こってもそれで心励まされることはあっても、
心が動じることはほとんどありません。
  (感動して泣くことはよくありますが ・・・ )

自分とインドとの深い魂の繋がりはすでに十分確信していることです。
確信しているということは疑いがないということであり、
疑いという邪念がないからこそ、
その魂の導きに応じた奇跡的な出会いも必然として起こってくるのです。

今はそれらをただ淡々と受け止め、
思いを先に進める進化ではなく、より深めていく深化を志しています。


ヨガナンダを読んでたびたび手紙をくださる方がいて、
今日はその方に手紙の返事を書きました。
その時にインドについて思いを馳せていると、
ひとつのことが頭の中に浮かび上がってきました。

奇跡とは天から与えられた果実のようなものです。
その甘美な果実から大きな喜びをもらい、
進むべき道を示してもらい、
その道を歩んでいく力と勇気を受け取ることができます。

これはとてもとても有り難いことであり、
これを否定することはまったくありません。

けれどその前提として最も深いところで受け止めなければならないのは、
今こうして生きていること、食事をし、呼吸をし、
日々喜怒哀楽を経験しながら肉体、精神の生命を保ち、
また子孫をも残していけること、
これに勝る奇跡はありません。

日々この瞬間、ただ生命を保っているということ、
これがいかに神秘的で奇跡的なことであるかということを、
もっともっと深く受け止める必要があると考えます。


自分は超理想主義者であり、
この時空の究極の真理はきわめて単純で易しいものであると感じ、信じています。
そしてそを感じ取るには学歴やお金、地位や名誉は必要なく、
どんなに貧しいインドの孤児でも、
フィリピンのゴミ山で暮らす人にでも、
志せば必ず手に入るものだと確信しています。

何か非日常的な究極の世界、奇跡のような出来事から
物事の真理を悟るということもあるでしょう。
またそれとは対極に、日常の些細なことの中から深い人生の味わいを
受け取るということもあるはずです。

どちらが理想的であり、どちらが究極であるとは言えませんが、
最も深い真理は、
最終的には日常的な物事の中から感じ取るのがより望ましいと感じています。

禅の悟りの段階を描いた十牛図でも、
最終的にはごく自然に普通の状態に還っていくではありませんか。
  <十牛図 - Wikipedia>

バランスとして特異な体験も必要です。
それでしか感じ取れないこともきっとあるはずです。
けれど最終的には日常の中へと意識を戻し、
普段当たり前と感じていることがいかに喜びに満ちたものであるかを知り、
その中から深い気づきを得ることが自然なあり方ではないかと感じます。

また怠惰な劣等生として生まれた自分にとって、
その日常の中での気づき求めるのが与えられた使命なのかもしれません。

今思いつきましたが、日常の大切さを説くということでは、
掃除道の鍵山秀三郎先生の唱えられる『凡事徹底』にも通じます。

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そして禅の世界で、顔を洗ったり掃除や食事をしたり、
そういった日常の行い、作務をも修行の一環として重きを置くことにも共通します。


今年のインド訪問では忘れられない経験をいくつかしました。
カニャクマリのホームを離れる時、
幼い可愛い女の子から、
小さなアクセサリーを手渡してもらい落涙しました。
そのアクセサリーは今も机の上に飾られていて、
これは生涯目に見えるところに置き続けるつもりです。

チェンナイのホームでは、
誰よりも明るく無邪気で子どもらしいダッチャ二がホームシックになり、
寂しげな表情を浮かべているのを見て、
ホームの子どもたち誰もがその明るい笑顔の裏に
何らかの悲しみを抱えていることを知り、
また涙してしまいました。

そしてホームのコテージで子どもたちと質素な朝食を摂り、
自分にとってそれに勝るご馳走と喜びはないということを、
深く胸の奥で確信することができました。

これらの経験を今になって振り返ってみると、
すべてが特異なことではなく、
ごく日常にある一コマだからこそ深く胸に響き、
普遍的に自らに対して訴えてくるものがあったのだと感じます。

またそういった日常の中で人の心を動かせる力を持つインドの子どもたちは、
それだけ自然で人間本来の生き方に則した生活をしているのだと思います。


ただ生きていること、これに勝る奇跡はありません。
けれどこんなことを言葉で述べなくても、
質素な日常の中で、日々喜びをもって生きているインドの子どもたちを見れば、
体を通してその真理は深く心に響き渡ってきます。

これはインドの子どもたちと接しなければ分からないことではなく、
日本にいても、ごく日常の中で本来誰にでも経験することができるはずです。

神社仏閣に行ってご利益を求める、
行を積んで奇跡や超常現象を望む、
そんなことをしなくても、ごく普通の日常の中に
無限の恵みや奇跡、喜びがあふれているのです。

幸せを遠いところに探しに行かなくても、
幸せの青い鳥はごく身近なところにいるのです。


その日常の奇跡を見つける方法は人様々です。
このヨガナンダに書いていることは、
一人の愚鈍な人間がそれを求め、
人とは一風変わった道を歩んでいるひとつのストーリーです。

トイレ掃除、インドのホーム訪問、食べ物をよく噛むこと、ボランティア活動、・・・
それらはすべて今という奇跡を感じるために行っている行為だと
言えなくありません。

日常こそが奇跡、だからこそ今というこの瞬間が限りなく尊い。
この世の中は対極のもの同士のバランスで成り立っています。
現代人は先のことに目標を置き、
より成長することをあたかも至上命題のように感じ、日々暮らしています。

だからこそその対極である日常、今という瞬間を見つめ、
より高みを目指すのではなく、今の状態に限りない喜びを感じることが、
より大切なものとなってくるのです。

多くの賢者が瞑想を習慣としているのも、
己の内、今を見つめ、その中から自然と湧き出る喜びを感じ取る
手段としているのだとも言えます。

そして今を十分に感じ取って生きられるからこそ、
未来をも正しい目でもって見つめることができます。


日常こそが奇跡、この言葉を口に出して唱えてみてください。
少し前に食べた食べ物が体の中で消化され、栄養となって吸収され、
血となり肉となり、生命の躍動となって
体の中で神秘の営みを休みなく続けているのを感じ取ってみてください、
胸の内に自然と喜びが湧き上がってくるはずです。

日常こそが奇跡、だからこそ誰にでも最も深い真理を感じ取ることができます。
神、仏、アラー、サムシンググレート、・・・
この世の中を創造したもの、あるいはこの時空の仕組みそのものは、
限りなく深い愛であり、
深い愛は日常の中にこそあるのです。

2013.12.3 Tuesday  
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