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2013年8月20日 ・・・ お盆に思う<3>

人間の想念は偉大なものであり、
この時空のすべてはその想念によって形作られたものであると
説く人もいるほどです。

ですからその人の持つ想念、
こうであるに違いないと信じ込む信念によって、
その人が行く死後の世界も影響を受けるということは、
十分に考えられることです。

そしてそれが個人のものだけではなく、
集団としての民族や、ある特定の教えを信じる教団としての信念があるならば、
それはより一層明確な形となって現れるのはごく自然なことです。


「我が魂の遍歴と新しい時代の理」「自然」の中にこのようなことを書きました。

すべてのものを溶かし込み、融合していく水の時代、固有名詞を持った神名を拝し、自分たちの宗教のみを絶対と信じ、幾多の殺し合いを続けてきた人類の歴史には終止符を打たなければなりません。
これからはすべての宗教がその垣根を取り払い、人類全体がひとつの共通した価値観を持つような方向に進んでいくでしょう。


冒頭でご紹介した超能力神主の菅原先生とそのお弟子さん、そして私の三人で、奈良県の南にある霊験あらたかな神社にお参りに行ったことがあります。
その途中ある神社に立ち寄って、祝詞を上げる声の聞こえる社を眺めていました。
すると菅原先生が、
「あ〜あ〜、今祝詞を上げても神様そこにいないのにな〜」
とつぶやかれました。

驚いた私がその理由を尋ねると、
「だって今、神様が外に向って歩いて行っちゃったよ」
と何食わぬ顔で答えられました。

菅原先生とそのお弟子さんには、神様の姿が視覚的に見えるようです。
そしてそのお姿は、白装束に身をくるんだ古事記の世界の神々のようなものらしいのです。

本当にそんなことがあるのでしょうか。
失礼ながら、その時私はとっさにこんな質問をしてしました。
「本当にそんな神様がいるんですか?
もしかして、私たち人間の想念が勝手に創り出しているだけじゃないんですか?」
今考えても本当に失礼な質問だったと思うのですが、それに対して菅原先生は、まったく動じることなく、ただじっと前を見つめたまま、
「う〜ん、そうかもしんないね」
と軽く答えてくださいました。

なんというナイスなお答えなんでしょうか。
それ以来、私は菅原先生のことがますます好きになりました。



死後の世界に限らず、宗教的世界観や道徳観は、
本当はきわめて主観的であいまいなものであるにも関わらず、
これまでの金属の時代は、固い拘束、不変なものに大きな価値を置き、
主観的なものでも絶対であると信じ込ませ、
そこから生じる強い求心力によって人々を導いてきました。

これはどんな人をも強く導いていけるという功はありますが、
その反面、人の正常な判断力を奪い、
絶対と信じるものが異なる者同士の間で激しい諍いを繰り返してきました。

この宇宙はビックパンという大爆発によって生じ、
今も膨張という陰の動きをし続けていて、
この時空の基本は陰陽の序列であり、
基本は絶対という陽ではなく相対という陰の中にあります。

相対的、主観的というのは、
絶対的、客観的よりも劣るもののように感じられるかもしれませんが、
そんなことはまったくありません。

どんな大量の金銀財宝を手に入れても、
一人で無人島に暮らしていては何の価値もありません。

どんなに素晴らしいことが書かれている書物を見せられても、
それを読み、そこから学ぼうという姿勢がなければ意味がないのです。

順境で堕落する人もいれば、
逆境から這い上がり強くなる人もいます。

大切なのはそのモノ、そのコトではなく、
それといかに関わるか、その人自身の相対的、主観的なものの中にあるのです。


小野さんが臨死体験によって見られた死後の世界は
とても素晴らしいものであり、
天に旅立たれた小野さんは、今はきっとその世界の中で
大きな役割を果たしておられるのだろうと思います。

けれどもそれは小野さんや小野さんのようにキリスト教的世界観を持つ人にとっての
主観的死後の世界であり、
その世界をすべての人が死後に体験するものではないと考えます。

主観的なものの中にも、より客観的要素が強いものとそうでないものがあります。
人は死後、地上にある肉体を離れ、
「死後の世界」という星にいくものと想像してみましょう。

最初魂が肉体を離れる時は、肉体と魂との分離感を感じ、
魂という意識体が足下から抜けていくのは多くの人が体験していることであり、
これは地上という共通のスタート地点に近いところでのことであり、
より客観性の強い事柄だと思われます。

その後死後の旅路を続けていくうちに経路は幅広くなっていき、
「死後の世界」という星は地球と同じく大きな地域差があり、
アフリカのように暑いところもあれば南極のように寒いところもある。
海のきれいに見える場所もあれば険しい山ばかりの所もあり、
みなそれぞれがその人が想像し、体験する主観的真実の世界であり、
どれもがみな異なった形ながら、
何らかの次元の中に存在するのではないかと感じます。

それらはみな主観的なものであっても真実であり、
それゆえに、異なる宗教的集団の元に、
その世界観に応じた奇跡や現象が現れるのだと考えられます。


もうひとつ、この時空の実相から推察し、
生と死の間にあると考えられるのが輪廻転生です。

輪廻という人が長い時を経て何度も生まれ変わるという考え方は、
宗教によってはそれを否定するものもありますが、
これは自然の成り立ちから考えて、
輪廻がないと判断するのはきわめて不自然です。

輪廻とは生と死の循環であり、
季節や歴史、地球を含めたすべての天体が循環し、
人もまた昼と夜で睡眠と覚醒を二十四時間サイクルで繰り返し、
この時空で永遠に同じ形を留め、
循環のサイクルに則らないものは何ひとつありません。

今年きれいに咲いた桜の花は、
時期を過ぎ、いったん花を落としても、
また一年の時を経て再びきれいな花を開かせてます。

去年と今年の桜の花は、
数も形も、その美しさもほとんど変わることがないとしても、
それらは完全に同一ということはありません。
けれどその根底に繋がっている命は長く受け継がれてきたものであり、
人の本源である魂もまた、この命に結びついたとものであると考えられます。

自分はインドに深い憧れと縁を感じます。
それは体の奥底から湧き上がってくる感覚であり、
どんな形であるかは分かりませんが、
自分の魂が過去にインドと深い関わりを持っていたことに確信を持っています。

そういった思いを持っている人は数え切れないほどいて、
明確な過去世の記憶があり、
実際にそれが現実と一致する正しい記憶だと証明された例もたくさんあります。

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何が正しくて何が間違いであるということは極力言いたくないのですが、
これまでの絶対を重んじていた時代には、
特に絶対を尊ぶ陽(西洋、物質)の思想の中に、
陰(東洋、精神)を否定することでその存在意義を示さねばならない
流れがあったので、
真理と異なることを説かねばならなかったのだと考えられます。

このことを含め、こういった考え方の根本となるものは、
「我が魂の遍歴と新しい時代の理」に詳しく書いていますので、
まだお読みでない方は是非ともお読みください。


これから本格的な水の時代となり、
人は生まれ変わるということが当たり前に認識されるようになってくると、
死者のために大金をかけて立派な葬式をあげて弔ったり、
永代供養をするための立派なお墓を建てるという考え方が
少しずつ薄れてくるのは必定です。

人の死はすべての終わりではありません。
けれど残された者にとって悲しみであることには変わりありません。

また死を真剣に見つめることによって生のあり方も鮮明に見えてきます。
死者を思い先祖を大切に奉る日本の文化は、
これからも継承されていくべきものと考えます。

けれどご先祖様を奉る立派なお墓は本来自分の心の中に建てるものであり、
亡くなった人への供養は、
残された者がその生を全うすることによって行うべきではないでしょうか。

形から脱して心の世界に入るということは、
人類がより高い次元に移行するということでもあります。

親から厳しく行動を制限されていた時代から、
子どもから大人へとなり、自主性、思いというものを尊ぶ時代へとなるのです。


ご先祖様から継承していただいたのは命です。
その命は石で作られたお墓や遺骨の中にはありません。
この今生きている己の体の中にこそあるのです。

合掌。

2013.8.20 Tuesday  
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